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高齢者医療の定額サービスを妄想する

コロナ禍で姿を消した人たち

 新型コロナウイルスが猛威を振るいはじめたころ、診療を受けるべく大きな病院に行く機会があった。病院で未知のウイルスに感染してはたまらないと多くの人が思ったのか、いつもは多くの人たちで溢れる待合いも閑散としていて、とても驚いた。

 心身の不調や不具合を放置するリスクと、未知のウイルスに感染するリスクを天秤に図り、自宅でじっと我慢せねばならなかった人たちのことを考えると胸が痛む。「新型コロナは単なる風邪」みたいな論陣を張る人が散見するが、医療サービスが健康と病の間に用意していたクッションのような性能を、ウイルスの蔓延が奪うのだということを考えたい。

 高齢者も病院から消えた。僕は若い頃、病院がお年寄りのサロンのようになってしまっていることに、少なからず不満を抱いていた。しかし、コロナ禍で高齢者が消えた病院の居心地がいいとは決して言えず、人がほとんどいなかった待合室を、とても不気味だと思ってしまった。

郊外の都営住宅の風景

 話は25年以上前に遡る。

 東京都の外れのほうで、僕は新聞奨学生をしていた。エレベーターのない古い団地とその周辺の住宅街を回るのが僕の配達ルートだった。階段の両端に住宅が並ぶスタイルの団地の新聞配達はとても大変だった。501号室の隣は502号室のみで、503号室へ行くには1階まで降り、別の階段を登らなくてはいけない。そうした団地が何棟も続く。信じられない体力が、10代の僕にはあったのだと呆れる。

 仕事に慣れた頃に配達ルートへ追加された新しい都営住宅には、エレベーターがあった。幾分か共用スペースにも余裕があり、その分、走り回る距離は広がったが、階段を上らなくてもいいのはありがたかった。

 新しい都営住宅で新聞配達や集金をしていると、一人暮らしのお年寄りが多いことに気がついた。なかには家に僕を招き入れ、孫のように接して小遣いをくれる人もいた。3世代の同居も珍しくない田舎出身の自分からすると、見慣れない風景だった。

 当時は、この風景が社会のどのような断片を表しているのかについては、深く考えなかった。そうこうしているうちに、孤独死の問題がクローズアップされるようになった。「無縁社会」のような言葉も生まれた。

 サロン化していた病院にも、セイフティーネットのような機能があったのだと思うに至った。ある種の生存確認であったり、それ自体が引きこもりを避けるための役割を持っていたのではないかと。

定額リモート診察サービス

 高齢者にタブレットなどの端末を配布して(スマートフォンを使える人は専用のアプリケーションでもいいかもしれない)、定期のリモート診察を行ってはどうかと思う。例えば、週一の決まった曜日に地域の担当医や看護師が対応する。費用は定額、もしくは無料。

 ある一定の時間を高齢者の問診に使わなければいけないので、病院では休診日のような時間帯が増えて不便になることがあるかもしれない。けれども、病院全体の混雑が防げるし、孤独死のような社会問題の解決にも役立つ(不通で不審な点があれば、自治体のスタッフが訪問など)。社会全体の福祉を底上げしたうえで、結果的に医療費の抑制(無用な投薬や診療の抑制など)にも役立つと思う。医療関係者の負担やリスクも軽減できる。

 ただ、この場合、医療を公的なものとして考え直す必要がある。

 もともと教育や医療は、利潤を追求するための「商品」だと考えると座りが悪い。本来、こうしたものは公的サービスだと考えたほうが、住民の生活の質は上がるのではないかと思う。高齢者が毎週健康相談ができることは、多くの人の社会不安を和らげる効果があると思う。

 財源は増税時の公約通り、消費税を充てるべきだ。