詩人論ー日本、海外の詩人論、序説ー

詩人論ー日本、海外の詩人論、序説ー

詩人論というものは、今迄あまり書いて来なかった。小説が論ずる時の主体だったからである。詩人論を書く時は、詩の構造や、詩人の方法論を書けばいいのか、それも良く分からない。ただ、書いてみるからには、書いてみるしかない。日本と、海外の、詩人を論じようと思う。海外の詩については、日本語に翻訳されたものを、論じようと思う。本来は、原文を論じるのが適切なのだろうが、今の自分にはその能力はない。直訳くらいは、辞書を片手に出来るかもしれないが、やはり意訳が重要になって来るだろうから、翻訳に頼ることにする。

ところで、例えば、西脇順三郎は、『PROFANUS』の中で、こう述べて居る。

人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術という。

『PROFANUS』/西脇順三郎

この、西脇順三郎の思考が、全ての詩人に当て嵌まるとは思わない。劇烈な現実に脅かされたところから、詩人が詩を創り出すことだって、沢山あるだろう。ただしそれは、いわゆる天才、と呼ばれる詩人にのみ与えられた特権だと思って居る。その点で、天才を省いた、一般的詩人には、西脇順三郎の様な視点は、重要視されよう。詩をいとも簡単に書いた詩人、苦労の果てに書いた詩人、半ば剽窃言語を用いた詩人、詩人になれなかったことを詩にした詩人、それぞれ、詩人にも種類があるだろうが、アプリオリな才能か、アポステリオリな才能か、ということは、充分に関わって来る問題だ。例えば、アルチュール・ランボーや、中原中也などは、アプリオリな才能であろう。その他は、だいたい、アポステリオリな才能だと思って良いと思う。

さて、目の前には、八冊の文庫本が置いてある。全て詩集である。これを全て論じることをするには、充分な時間が必要である。であるから、日本の詩人、海外の詩人、に分けて、2論書いてみようと思って居る。参考文献など引用しない、主観的印象批評になるだろうから、需要の有るものになるかは分からないが、取り敢えず書いてみる。日本の詩人は、宮沢賢治、中原中也、伊東静雄、石川啄木、四名。海外の詩人は、アルチュール・ランボー、ボードレール、エドガー・アラン・ポー、ジャン・コクトー、四名。総計八名に絞った。この八名を論ずるには、一種の文学的詩的格闘をしなければならないだろう、詩の用語も弱いから、とにかく今ある知識で解剖しなければ、事は運ばない。それでも、事を、進めてみる覚悟である。

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