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アイヌ民族の歴史に思いをはせる①

アイヌ民族の歴史、また北海道の彼らの地に思いがありました。2020年7月に開館した、国立アイヌ民族博物館を訪れ、歴史と文化の一端にふれることができたので、今回、このことも交えて書いていきたいと思います。

アイヌ民族をはじめ、世界各地の先住民族の多くは、国家の政策によって生活基盤である土地や資源を奪われ、独自の言語を使うことを禁じられ、不当な差別を受けるなど、苦しい時代を経験してきました。日本で歴史的に起こっていた出来事ながら、私たちが知らされる機会は非常に限られています。


1.アイヌ民族の歴史~「同族(ウタリ)の立場から」~

アイヌの歌人であり、キリスト教の伝道者であった、バチェラー八重子の「同族(ウタリ)の立場から」には、人々は北海道全島のいたるところに住み、海、山の天然資源の恵みを受け、優美に縫い取りした衣服をまとい、恵み多い生活に感謝をして暮らしていたと記されています。しかし、1454年蝦夷地にわたり、武田信広公が治めるようになってからは、和人たちは、交易で品物をごまかしたり、家宝財産をだまし取るなど彼らの好意を裏切ります。

アイヌの人々は怒り、和人相手に幾度となく戦いました。祖先のコシャマインは松前藩の14の館のうち12までも攻め落としました。その結果、信広公は和睦を申し込み、講和の祝いをするといって、コシャマインに酒をすすめ、酔いつぶしてだまし討ちにしたのでした。(コシャマインの戦い)

松前藩の背後には、徳川将軍家があり、戦いのあるごとに東奥各藩を動員して、アイヌ征伐をし、圧制を行っていきます。漁場での労働では、朝から晩まで休みのない労役、青竹の無知で犬のように打たれるなど酷使されたと言います。雨風の日も一日の休みも与えられませんでした。

さらに松前藩は、和人とアイヌの人々の住む地域を区別しました。部落には和人が入り込み、アイヌの若い婦人たちは恥辱を受けたという悲惨な話も語り継がれています。また、アイヌの人々をだましやすくするため、和語を教えること、和人の服装をすることを禁じたと言います。

彼女の短歌から、こうしたアイヌの人々が絶望の淵で、どのような思いで生きていたのかを思うと、胸が締め付けられるような気持ちになります。

「どん底に つき落とされし 人々の 登らむ梯子 ありなばと思う」
「たつせ無く 惱み惱みて 死する外に われらウタリの 道はなきかや」

2.アイヌモシリが北海道になった経緯

アイヌの人々は北海道を中心に、サハリン(樺太)南半分やクリール(千島)列島、さらに本州北端におよぶ広大な領域に生活をはぐくんでおり、自らの生活領域をアイヌモシリ(人間の大地・世界)とよんでいました。

宇梶静江さんが、アイヌとしての自身の人生をつづった「大地よ!ーアイヌの母神、宇梶静江自伝ー」で、アイヌモシリが日本領になった経緯について書いておられます。

1855年日露和親条約締結の際、両国は択捉島と得撫島の間に国境線を引きました。1868年江戸幕府が倒れ、明治新政府はアイヌモシリを「北海道」と命名します。そして北海道開拓使を設置し。北方警備と開拓を目的として、屯田兵を次々と送り込んだのでした。

1875年には樺太・千島交換条約で、千島列島が日本領、樺太がロシア領とされます。その後の日露戦争の結果、1905年のポーツマス条約では、南樺太が日本領となります。しかし、第2次世界大戦の敗戦に伴い、南樺太、択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島までソビエトに占領され、現在のロシアに受け継がれています。

この間、アイヌ民族やギリヤーク民族(樺太北部及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族)といった先住民が歴史的に主体として現れたことはありませんでした。そして、このような経緯の中で、アイヌモシリは「北海道」となり、アイヌ民族は日本人とされたのでした。

3.「北海道旧土人保護法」による同化政策

明治維新後、政府はアイヌ保護政策をとり、農業による授産を進めましたが、もともと狩猟、漁労を生業としていたアイヌの人々にはなじみませんでした。

その後に成立した「北海道旧土人保護法」は和人の移住者に大量の土地を配分した後、残地をアイヌに付与するという措置を取り、戦後の農地改革では、他人に貸していた土地が強制買収されたと言います。

荒井源次郎氏は著書「アイヌの叫び」で、アイヌは特別保護しなければ生活が保証できないという理由から「北海道旧土人保護法」が制定され、ここに和人の優越感が先行したのだと言います。

また本保護法下で差別的な教育が行われたとも語っています。旭川では尋常小学校が混合教育をはじめましたが、児童の出欠をとるために名前を呼ぶ際はアイヌの児童は一番最後、昼食時にはアイヌは何を食べているのかと、弁当箱を覗き見られたという、差別的な体験が記されています。

この法律は、アイヌ民族から出た、はじめての国会議員である萱野茂氏によって、国会で廃止提案がなされる1997年まで存続し、この年「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」が国会で可決され、廃止されました。

私たちが、教育の場でもなかなか知る機会のなかった歴史に触れ、歴史をたどることは、私自身にとって、意義深い機会でした。出向いていかなければ、出会うことのできない、この場所と歴史、ご関心のある方にはぜひ、訪れてほしい、と感じました。

次回はウポポイについてつづっていきたいと思います。

☆今回参考にした文献です


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