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あの頃の経験があるからこそ、アスリートがもっと挑戦できる世界を作りたい/山本弘明さんインタビュー

山本弘明に初めて会ったのは2015年秋のことである。当時24歳、彼がモンテネグロでプロサッカー選手としての生活を始めて1年半近く経ったころだった。それから約1年の間に、聞き手としてたびたび現地に赴き練習や試合を観て、彼がその世界で何を見て何を感じ、どう行動したのか、何度かインタビューを重ねた(当時のインタビューは近日発売の書籍に収録予定)。

26歳で現役引退後、都内の一般企業に就職。すぐに独立して起業し、現在は株式会社Maenomery取締役兼COOとして華やかな活躍をしている。あの東欧の片隅で最後にインタビューをしてから約5年、彼は現役時代をどのように振り返り、自らの現在地をどう語るのか。

当時のことは全然覚えていない(笑)

——まずは、海外でのプロサッカー選手時代のことを、改めて振り返っておきましょうか。大学を卒業して半年日本で準備した後に、モンテネグロに渡って2部リーグのクラブでプレーしていましたね。

「そうですね、2014年の夏から、まずモンテネグロ2部のイガロ(FK Igalo)というクラブでプレーしました。2014/15シーズンは1部との入れ替え戦まで行ったのですが、負けてしまってクラブとしては1部に上がれなかった。それで2015年の夏は個人昇格的に1部への移籍を探していましたが、まとまらず、また同じ2部のイガロで2015年の年末までプレーしていました。」

——私が初めてモンテネグロでお会いしてインタビューしたのは2015年の11月でした。この時点ですでに1年半近く海外経験があるという段階で、おそらく苦い経験もたくさんして、ある程度なにかを悟ってしまった人のようなインタビューだなと思った記憶があります(笑)。2016年に入って、次は同じ2部のイバル(FK Ibar)に移籍しましたね。

「はい、最初に所属していたイガロは海辺の街にありましたが、移籍したイバルはコソボとの国境も近い山の中のクラブで、宗教的なことも含めて街の雰囲気が全く違いましたね。」

——そうですね、私も何度も行った思い出のある街です。イバルへの移籍は、もともとイガロの監督がイバルに移って、その監督にぜひ一緒に来てくれと請われて移籍したという形だったと思います。そのような経緯もあって、私が観に行った試合でも、完全にチーム内で中心選手としての活躍をしていたように見えました。あの試合は素晴らしかったですね。ゴールも決めていましたし。覚えてます?

「全然覚えてないですね…(笑)。」

——私の方がよく覚えてるのかもしれないですけど(笑)、本当に素晴らしい試合で。中心で試合をつくるゲームメーカーというのはこういう選手のことを言うんだなと思ったということを、試合のあとスタジアムから坂を下りていくとき、あの坂すごい急坂でしたよね、そのときに話しましたよ。

「全然覚えてないんですよね。モンテネグロの記憶、全然ないかもしれない…(笑)。」

——5年以上前のことですね。私は鮮明に覚えています。スタンドから「ヤマ」コールが起きていて、それも私は初めて見る光景でした。モンテネグロで日本人選手がコールで呼ばれるのを見るのは、後にも先にも私は経験なくて。それで私が、とても良かったですという話をしたら、チームの中心選手だと思ってもらえてるってことは良いことだし、いま確かに監督にもチームメイトにもサポーターにも認められているから、そう見えるかもしれない、でも自分自身としては、このレベルでこれは当たり前じゃなきゃいけないと思ってる、って言ってました。

「イキってますねー(笑)。」

——これは名言が出たなと思って、今もよく覚えています(笑)。この2015/16シーズンは2部リーグではありましたが、ほぼ完璧なシーズンだったんじゃないでしょうか。そのあと、2016年の夏はアルバニアのクラブでトライアウトを受けたりということもありましたが、最終的にはモンテネグロ1部のロブチェン(FK Lovćen)に移籍が決まり、海外挑戦をして2年でヨーロッパの1部リーグでプレーするというところに辿り着きました。でも正直、あの当時あまり嬉しそうじゃありませんでしたね。

「うーん、そうですね。当時どう思ったかはあんまり覚えてないんですけど、でも本来はもっと早く1部でできると思ってましたし、もっとレベルの高い国へ挑戦できるとも思っていましたから、このタイミングでモンテネグロ1部というのは、正直あんまり嬉しくなかった気がしますね。」

——そうだったんでしょうね。あの頃は私も頻繁にモンテネグロに行っていて、インタビュー以外でもお話しする機会が多かった時期で。移籍は2016/17シーズンが始まるギリギリのタイミングで決まったと記憶していますが、このシーズンは始まってもしばらく試合に出られないままでした。精神的にもとても難しい時間だったのではないかと思います。秋になってから、2016年の11月頃でしたか、やっとスタメンで試合に出られるようになって、私もロブチェンのホームで2回、試合を観ました。

「大雨の中の試合でしたよね。それは少し覚えています。」

——そう、あの大雨の試合で撮った写真、私とても気に入ってるんですよ。泥だらけの後ろ姿の写真です。ずっと後になってから、モンテネグロでは泥臭い選手だったって言ってたことがありましたよね。あの写真はまさに、山本さんがモンテネグロで闘ってきたありのままの姿を撮った写真だなと思っています。チームの中での役割も、2部でパスを散らしていたときとは違って激しいプレーを求められていて、試合の後に傷だらけになった背中を見せてもらいました。

「あの傷、今も残ってますよ。」

——そうなんですか…。モンテネグロで最後にインタビューしたのは、あの年の秋が終わる頃、ロブチェンのホームタウンは山の麓にあって、冬が来るのも早かったんですよね。11月の終わりでしたが、夜はとても寒くて。ほぼ誰もいないレストランで、暖房の前で温かいお茶を飲みながらお話を聞きました。あのインタビューはとても良かった。試合に出られなかった苦しい時間のことを、山本さんの剥きだしの言葉で聞けたと思っています。私がいろいろな選手に100回近くインタビューしてきた中で、今でも記憶に残る経験のひとつです。

「そうでしたっけ…。なにを話したか、あまり覚えてない…(苦笑)。」

83_Cetinje_Lovćenの試合観戦でその泥が美しく見える

引退は自分で決めたルールだった

——そのあと2017年の年が明けて、シーズン再開前に怪我をしてしまい、結局その怪我がきっかけとなって引退を決断することになったわけですね。そのあたりのことは今回初めてインタビューする内容になりますが、経緯を聞かせていただいてもいいですか?

「なるほど。そうですね、2017年の2月頃かな、プレシーズンのトレーニング中にチームメイトとの接触プレーで怪我をしたんですけど、そのときは、あ、これはやっちゃったなと思いつつ、まあ、2、3週間休めるわぐらいに思ってました。でも結局、ちょっとややこしい怪我で、きちんと治らないまま、なんていうか、日本人だからそのまま頑張っちゃったんですよね。シーズンが再開しても治らず痛いままだったので、MRIを撮って日本に送ったら、温存するにしても手術するにしても、このままモンテネグロにいても治らないということになって、帰国することになりました。」

——その当時は、日本で治療とリハビリをして、もちろん現役復帰するつもりだったんですよね?

「はい、もちろんそのつもりでしたけど、リハビリをして少し良くなったところで今度は肉離れしちゃったりとか、復帰しようと思ったらまた怪我をするというようなことを繰り返していて。そういう経験は人生でも初めてで、結局、2017年夏の移籍市場のタイミングに間に合わなかった。実はね、これは現役中のインタビューでは話していないかもしれませんが、僕の中では、海外挑戦するときに、3年で自分が望んだレベルのクラブに行けなかったら引退しようと決めていたんですよ。怪我をして日本でリハビリをしていた2017年は、3年目の最後の半年だったんです。もう1年やろうかなとも思いましたよ。でも、怪我だろうが何だろうがこれも自分の実力不足だろうと。自分で決めたルールを守れなかったら、今後一生、自分で決めたことを守れなくなると思って、引退を決断しました。」

——そうだったんですか…。初めて聞いた話です。驚きました…。それは葛藤なく決断できました?

「うーん、葛藤はなかったと言ったら嘘になるかもしれませんが、もしかしたら、辞めるタイミングを探していたという感じもあったかもしれないです。なんだろう、こういう言い方が良いか悪いかはわかりませんけど、逆に怪我に救われたかもしれませんね、そういう意味では。」

アスリートがもっと挑戦できる世界を作りたい

——現役時代、ずっと試合に出て完璧なシーズンを過ごしていた頃も、サッカー引退したら会社をつくりたいな、というようなことはよく言ってましたよね。2017年の夏に、引退して就職活動します、という報告を受けたとき、遅かれ早かれそういう未来は来るんだろうなと私も思っていましたから、そこはそれほど衝撃ではありませんでした。就職が決まってからのサラリーマン時代のことは、いま振り返ってどうですか?

「まあ、現役中からずっと、サッカーしかやってこなかったんだなと思われる人間にはなりたくないと思っていて、就職活動中も外資の企業を受けたりとか、身の丈に合わないようなことしたりはしてました。で、縁があって入社した前職で、もちろん大変ではあったんですけど、でも、想像していたよりもわりと早く、ある程度の結果は出すことができたんですよね。」

——できちゃったと(笑)。

「はい(笑)。もちろん運や周りのサポートがあったからこそではありますが、僕が今までやってきたサッカーに対する努力量に比べれば、こういう言い方は失礼ですけど、社会人としての結果っていうのは周りより少しだけ頑張ればわりと出やすいものなんだな、みたいなことは感じたかもしれないです。海外でサッカー選手をしていた時の方が、自分ではどうにもならないことは圧倒的に多かった。日本では営業マンとしてある程度の結果を早い段階で出せて、役職もわりと早めに上げてもらって、部下も何人かついて。でも前職では、上に立ってしまうと自分では何もしなくても周りの助けで数字は出て、その自分で出した結果ではない数字で評価してもらえるようになってしまったんです。そうなると、自分の成長が止まってしまうような気がして、つまらないと思うようになりました。そのタイミングで、今の会社の代表に一緒に独立しようと声をかけてもらったこともあり、絶対そっちの方がおもしろいやと思って、株式会社Maenomeryを立ち上げることにしました。」

——2018年8月のことですね。体育会学生やアスリートのキャリア支援が主な業務内容ということですが、実際にいま山本さんが携わっているプロジェクトについて教えてください。

「これは僕の原体験が大きく関わっているんですが、アスリートがもっと挑戦できる世界を作りたいという思いから、アスリートのための教育サービスを立ち上げました。もともと、僕がプロサッカー選手として海外に挑戦しようとしたとき、周りからずいぶんマイナスのことを言われることが多かったんですよね。お前には無理だとか、なに夢見てんだよとか。カテゴリーがどうであれ海外でプロになった後も、馬鹿なことは1年で辞めてきちんと働けとか。3年やって日本で就職したら次は、どうせサッカーしかやってこなかったんでしょ、とか。僕自身は負けず嫌いだし、人が何を言おうがやりたいことをやるタイプだったので、周りの反対を押し切って海外挑戦をして今がありますけど、みんなが何かに挑戦しようとしたときに、年齢的なことやセカンドキャリアのことを考えて諦めてしまう世界を変えたいと思ったんですよ。それで今は、アスリートが好きなスポーツを最前線で限界まで続けられるように、「アスリートとしてのキャリア」と「社会人としてのキャリア」に並行して取り組む「デュアルキャリア」を、教育という面からサポートする事業を展開しています。」

——料理のレシピ開発や、女性アスリートによる化粧品開発なども、このアスリートのためのデュアルキャリア教育サービスの一環なんですね。

「そうですね、リリースして約1年になりますが、まだいろいろと試行錯誤です。アスリートの社会問題を解決するために、現役のうちからビジネススキルを身に付けるための教育を、と事業を展開してきましたけれども、マーケットサイズのこともあり、これだけではもともとの問題は解決できない。アスリートという枠にとらわれず、もっと広い視野で社会問題を解決できてこそ、アスリートが思いっきり挑戦できる世界を作ることができるんじゃないかと、最近は考えています。」

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あの辛い経験があってこそ、今がある

——このアスリートのためのデュアルキャリア教育サービスには、山本さん自身が海外挑戦した原体験が関わっているとのことでしたが、今このプロジェクトに携わるにあたって、ご自身の現役時代のことをどう捉えていますか?

「プロサッカー選手として海外挑戦をして良かったと思うことは、いくつかあるんですが、まずは物事を多角的に見られるようになったこと、それから、自分にはどうにもできないことに対しても他責ではなく自責として捉えられるようになったこと。以前は理不尽なことに対して当たり前にストレスを感じていましたが、あの自分ではどうにもできないことだらけの世界で、それでもやっぱり全ては自分の能力不足のせいだろ、と考えることができるようになった。そういう意味では、2016年の夏からロブチェンで試合に出られなかった3か月のことは、いい修行だったと言えるかもしれませんね。」

——それは今でもそう思うんですね。あの当時のことは、ロブチェンでインタビューしたときの飾らないありのままの言葉でも聞きましたが、ほんとに辛かったと。一生その事実は変わらないけど、ここまで一日も無駄にしなかったと言えるから後悔はしていない、この経験があればこれからどれだけ辛いことがあってもひっくり返せると、そういうお話をしてました。

「確かに、あの3か月は地獄でしたね。ここまで来て、試合にも出られず何をしているんだろうと。会社を立ち上げた今でも、あれを超えるほど辛いことはまだないです。それでも、あの経験は今も生きていると思います、実感はないんですけど。」

——日頃はあまり思い出す機会もないんでしょうね。先ほどのお話でも、現役時代のことはほとんど覚えていないということでしたし。

「ほんとに覚えてないんですよね…。でもそれは、プロサッカー選手を引退してからも、ありがたいことに刺激的な時間を過ごせているからだと思います。今は仕事がとてもおもしろいですから。」

——モンテネグロで私が聞き手として山本さんと接していたのは1年だけでしたが、あの世界は日本とも西側の先進国とも違って、お互いに本当の自分を晒さざるを得ない場面も多かったように思います。自分を飾ったり盛ったりできないという意味で。実はね、あの当時と今を比べて、このインタビューの前までは、今の山本さんは少し無理をしてるんじゃないか、背伸びして頑張りすぎちゃってるんじゃないかとも思っていたんですよね。でも今日、久しぶりに話をして、あの頃の山本さんあっての今なんだなと、納得できたような気がします。

「そんなふうに見えてましたか(笑)。でもその通り、あの頃の経験があってこそ、今は本当にやりがいのある仕事を楽しめているんだと思います。」

——最終的な目標を聞かせてください。

「みんなが何かに挑戦するときに、頑張れと応援できる世界を作りたいと本気で思っているので、そのためにまだまだ、取り組まなければならないことだらけですね。中長期的な目標としては、やはり自分の会社を上場させたい。もちろん上場すること自体が目標ではありませんが、お金が集まることによって、より大きなプロジェクトが展開できるようになるので、それが夢の実現につながるとはずだと、今はそう思っています。」

山本弘明(やまもとひろあき)氏
1991年4月12日生まれ。広島県福山市出身。
2014-2015 FK Igalo(モンテネグロ2部)
2016 FK Ibar(モンテネグロ2部)
2016-2017 FK Lovćen(モンテネグロ1部)
2017年、現役引退。現在は株式会社Maenomery取締役兼COO。



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