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娘に「40歳は初老」と教えられた

25年前、自分が老眼であることに気づいて少々ショックを受けた。
奇しくも私が40歳になった年。
その老眼に気づいたすぐ後に、娘が私に「お父さんって初老?」と聞いてきた。
「何を言っているんだこの子は」と思い「お父さんはまだ40歳だぞ!」と言い返した。
つい先日老眼に気づいて老いを自覚したばかりだったので3歳の娘に少々動揺していた。

当時はまだスマホという時代ではなかったので、辞書で「初老」というのを調べてみた。
すると初老は40歳と書いてある。
娘の言っていることが正しかった。
こんどは動揺を通り越して愕然とした。

「初老」は老人の域にはいりかけた年ごろという意味。
昔は人生50年と言われていたので、その頃の名残なのだろう。
それにしても40歳で初老というのはとても現代には合わない気がする。

私が子供のころには60歳にもなると本当に「おじいちゃん」という感じだった。
たしか55歳が定年で、定年後はみんな縁側で時間を持て余しているという印象だった。
着るものも地味なものばかりでスポーツなんてしている人を見たことがなかった。
本当に余生を過ごすという言葉がピッタリくるような印象だった。
時代はずいぶん変わったんだなぁと感心している。

そう考えると65歳の自分が今仕事を楽しみながらスポーツも楽しみ、自分の人生に挑戦してみようと思っているというのは自分ながらによく頑張っているなぁと思う。
あらためていい時代に生きてきたなぁと感心してしまう。
この時代に生まれたということ自体がとてもラッキーなことだったんだなぁとつくづく思う。
もしも私の親の時代だったら戦争を経験していたことになる。
もしも私の子供たちの時代(現代)だったら不況の真っただ中である。

私は戦争も終わって、日本の景気がどんどん上向きになっているときに生まれ育った。学生時代は貧乏だったが、社会に出れば給料をもらえて未来は必ず良くなっていくと信じていた。未来に希望を感じられる時代だった気がする。
そんな時代は世界的にも歴史的にもめずらしい。本当にラッキーな時代だったと思う。

そんな恩恵を享受してきた私たちの年代が、子供たちの年代に負債を残していくのはどうなのだろうとふと思ってしまう。
それは私の納得のいく人生なのだろうかと。

私がどんなに努力したところで大して社会は変えられないだろうと思う。
それでも自分が努力しなければ自分の納得にはならない気がする。
ならば、結果はどうあれ、努力できるところまで努力してみた方が自分が納得できる。
その上で結果が伴わなければ私はその程度の人間だったということ。それはそれで仕方がない。
しかし、何も努力しないで自分だけが良ければいいという人生を私は納得できない。
かといって社会のために自分の家族にひもじい思いをさせるわけにはいかない。
そう考えると使える時間もお金もおのずと制限されてくる。

現実は現実として素直に受け止め、その中で自分のできることは最大限に努力してみる。それが必ず自分の人生の納得感になる。そう信じて今は着々と準備している。
どれだけのことが自分にできるのか少々楽しみでもあり、少々苦しみでもある。
でもその肩の荷の重さこそが喜びの重さでもあると信じて、これからもう少し努力してみようと思う。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
今日も笑顔あふれる一日をお過ごしください。


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