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ホームドアから離れてください 3┃北川樹

それで、「おまえ、おとこ? おんな?」―そんな声を思い出した。

幼い僕自身の声だ。入学したてのころだろうか。頭のなかに当時のようすが模型みたいに浮かんだ。僕と彼は前後の席で話している。出席番号がつづいていたのだろう。

休み時間の教室。おのおのが、机と椅子の整列した新しい場所に浮かれていた。担任の先生は忘れものを取りに職員室に戻っていたから、正面に向かって左にある先生用の大きな机には誰も座っていなかった。黒板はとても大きく、そこに書かれるものをぜんぶ憶えていかなくてはならないのかと思うとげんなりした。何人かがチョークでいろとりどりの落書きをしはじめ、女の子が「勝手に書いたらだめでしょ!」と注意するのが聞こえた。

おまえ、おとこ? おんな?
「おとこだよ」彼は声を口のなかに響かせて答えた。
「なんでそんなに髪長いの」僕はけたけた笑っている。
「おれ、髪長い?」
「すごく」口角を曲げてつづける僕。「おんなみたいだぜ」

彼は耳を真っ赤にした。そうかなあそうかなあと口をむぐむぐさせ、それが助走であったかのように、突然どなった。なんといったのか僕には聞き取れなかった。おそらくは「長くねえよ」とか「ふざけんなよ」とか、そのあたりだったのだろう。口の端につばが溜まって泡になっていた。どなり終わってからも彼の口は開いたり閉じたりをくりかえした。それがどうしてもおもしろくて、僕はこらえきれなくなって笑いだした。

そうして、いやらしく笑いながら身を乗り出し、彼の髪の毛を触った。

椅子を飛ばす勢いで彼は立ち上がった。僕の腕を手の甲で弾いて、そのまま机を叩いた。すごい音。机の天板が割れてしまうんじゃないかというくらいの。木の板に蜘蛛(く も)の巣状のひびが走って、かけらのひとつひとつが四方に弾け飛びそうだった。僕は驚き、なんだよ急に、といった。

彼はなんと答えただろう。憶えているのは、僕の頬を平手が打ったことだけだ。

それを合図に、取っ組みあいのけんかが始まった。僕が彼の髪の毛をわしづかみにして引っ張る一方で、彼は次々に平手打ちをくり出して、それはどんどん強くなった。僕はすでに泣きそうだった。彼だってきっとそうにちがいなかった。それでもお互いに意地を貫こうとしていた。絶対に泣くまいとして目頭に力を込めると、髪を掴(つか)む手も固く力んだ。途中で椅子が倒れ、机が倒れ、板張りの床が鈍く鳴った。

クラスのみんなが異変に気づいて集まってくる。やめなよ、と口々に叫んでいる。まだ名前もろくに憶えていない段階で、それでも妙な結束を固めた級友たちに、僕と彼はそれぞれ取り押さえられた。

「あいつが悪いんだ!」僕は叫んだ。「おれじゃない!」彼も叫んだ。それがまたふたりの怒りに火をつけて、取り押さえるクラスメイトを振り払おうと躍起になった。こういうときにはびっくりするほど力が出る。僕を押さえていたひとりを突き飛ばして、尻もちをつかせた。「きゃああ」と女の子の悲鳴がした。おんなじ声が「せんせい、先生、先生呼ばないと」といった。数人の女の子がひとかたまりになって職員室を探しに行った。

先生が来るまでのあいだに、僕たちの熱は徐々に引いていった。相手への怒りに代わって、先生に怒られる、という恐怖が頭を占めつつあった。入学していきなりだ。小学校というのはなんてやりづらいところなんだろう、と思った。「はなせよ、もういいから」僕がいうと、ふたりは解放された。机や椅子をもとどおりにしながら裁判官の到着を待った。

先生がどうやって僕たちを叱ったか、記憶はあいまいだ。ただ、説教が終わったあと、うなだれて席に戻る僕たちに、オザワというやつが声をかけてきたのは憶えている。

「きみらええのう、ええのう」

オザワはいきなり僕たちのあいだに割り込んで肩を組み、変な言葉遣いとイントネーションでしゃべってきた。僕はなんだよとか誰だよとか文句をいいながら、心も体も疲れきっていて、肩に載ったオザワの腕をどける気にならなかった。

「もうライバルみたいじゃ。きみら最高のともだちじゃ」

オザワはひとりで豪快に笑った。ばかみたいだった。あんのじょう先生に「早く席に着きなさい!」と鋭く注意されてしまう。

自分がオザワに腹を立てなかったのはなんだか不思議だった。オザワのいうことはめちゃくちゃだ。ひとのことを勝手に決めつけている。それに、馴れ馴れしい。けれど、どうしても憎めない感じがあった。

オザワは坊主頭にぺちゃんこの鼻をひっつけていた。自分のことを「わし」と呼び、「わしは横浜はようわからんけど、ええとこじゃ思う」と自己紹介でいった彼はまたたく間にクラスのムードメイカーになった。学級委員のようにハキハキとクラスを仕切るわけではないが、笑いの力でつねにクラスのまんなかにいた。

よく見ると、写真にはオザワがたくさん登場した。だいたい集団のまんなかでのどちんこが見えるような笑顔を広げていたり、逆に写真のフレームから見切れていたりした。

正直にいえば、学校専属のカメラマンが撮った写真より、父の撮った写真のほうがなんとなく好きだった。現実をそっくりそのまま切り取るという以上に、まるで映画のように、動いているふうに見えるからだ。

写真をすべてブリキの箱に戻そうとすると、きらめきが見えた。箱の底にまだなにかある。
つまんで取り出した。それは、金色の折り紙でつくられた手裏剣だった。

ああ―僕は思い出す。二年生への進級を控えた春休み、髪の長い彼がくれたものだ。

休みが明けるのを待たず、彼は転校することになっていた。
自転車にまたがり、僕たちはだだっ広い公園の円周を少しも飽きずに走りつづけていた。僕が先頭で、すぐ後ろを彼が同じ距離を保ってついてきた。

一年生の初め、彼は自転車に乗れなかった。五つ上の兄がいて、そのおさがりの自転車があるのに全然だめだった。僕がそれをばかにし、またけんかになりかけたこともある。でもそのときは、僕が「一緒に練習してやる」と提案した。彼は殴りかかろうとしていた拳を引っ込め、「ほんと?」といった。僕がうなずくとすっかり安心した顔になって笑った。彼がそんなに素直な笑顔を見せるのは珍しいことだった。

無我夢中で自転車を漕いでいると、時間の進みかたがほかとはちがうような気がしてくる。世の中とは相容れない、自転車のスピードにしかわからないものがあるみたいだった。顔に激しくぶつかる風、横をものすごい速さで過ぎていく景色、そういったものがそれを証明していた。そして、これと同じものを後ろの彼も感じているはずだった。きっと、長い髪をばかみたいになびかせているだろう。

あと何周するかも決めないで、僕たちはペダルを漕ぎつづける。

「どのくらい遠いの」風の音が耳元でうるさくて、叫ぶようにして訊いた。「次の学校、どのくらい遠いの」

後ろから叫び返す声がした。「そんなに遠くない。たぶんだけど」彼がここまで声を張るというのもまた珍しく、いいものを聞けた気がした。
僕は「ふうん」とそっけなくうなずいたあと、「じゃあ、二度とこっちに来られないってわけでもないんだ」とつづける。

彼は「そうだね」と答え、しばらく黙った。
僕たちは自転車を漕ぎつづける。真横を過ぎ去っていく景色と風を感じている。

「来いよ」僕は叫んだ。

なにか答える代わりに彼はベルを二回鳴らした。なんだそれ、と僕は笑った。知らない、と彼はばかにしていった。けんかにはならなかった。

公園をぐるぐるしつづけているうちに太陽の位置はすっかり変わって、空は暗くなっていた。「止まるよ」と叫んでから、僕はブレーキを握る。彼の自転車は僕の横について止まった。ふたりともじんわり汗をかいていたし、息が上がっていた。髪の毛は汗で光っていた。風のおかげで涼しかったけど、疲れている。

「門限、過ぎそう」彼がいった。
僕はうなずいて、「じゃあ帰るか」とふたたび自転車を漕ぎだした。こんどはゆっくりだ。彼もつづく。

公園を出てふたつめの交差点まで、ふたりして無言だった。頭のなかではなにかのCMソングが延々と流れていた。場ちがいだった。この春休みが終わったら、僕たちは二年生になり、別々の学校に通いはじめる。そんなの、痛くもかゆくもない。痛くもかゆくもないけれど、少しだけ、怖い。

じゃ、といって、僕は右に曲がる。彼がゆく道は左だ。CMソングは相変わらず鳴り響いていて、だから、それに合わせて鼻歌をうたった。お別れはあっさりと。振り返らないのがかっこいい。鼻歌は何度も同じフレーズをくりかえした。太陽が沈みかけ、空がオレンジともピンクともつかないおかしな色になっていた。

「待って」

彼が自転車を飛ばして追いついてきた。
僕は鼻歌をやめた。「あれ、おまえ、こっちだったっけ」
「止まってよ」
「なんで」
「いいから、止まって」
「だからなんで」

僕が意地を張っていると見て、彼は進行方向に回り込んできた。危ねえよと、しかたなしに僕は止まる。「なんなんだよ」

これ、と差し出してきたのが、金色の折り紙の手裏剣だった。

     *  *  *(次回は近日公開予定)*  *  *

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