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ホームドアから離れてください 6┃北川樹

部屋に戻ると僕は姿見の前で泣いた。電気は消したままだが、外の明るさが部屋を照らしていた。姿見は勉強机の左、壁と向きあうようにして立ててある。そこに映るのは僕の憶えている僕ではなかった。髪は伸びほうだいで脂ぎり、筋肉の大部分は脂肪にとって代わられ、不潔なひげも雑草みたいに生えて、顔じゅうにきびだらけ。頬のにきびに沿って涙が蛇行している。

壁に寄りかかり、姿見の僕をじっと見つめつづける。目をこすったりしない。泣くままにしておきたかった。鼻水をすすり上げ、やがて嗚咽がこぼれても、僕はずっとそうしていた。延々と涙は出つづける。泣くまいとしなければ、こんなふうにほろほろ泣いていられるのだ。なんだか笑えてきて、涙を流しっぱなしにしながら乾いた笑い声を立てた。は。は。は。

「死ね」と僕はつぶやいた。タキノを捨て、完全に世の中との関わりを絶った僕のことは、もう誰からも見えないのだ。コウキはいいよなあ、ちょっと勇気を出して飛び降りて、大怪我したけれど命は助かって、もうけろりとしている。―この思いつきは悲しかった。自分でよくわかっていた。

誰かが階段を上ってくる足音がする。

開け放していた部屋の扉を閉め、それに寄りかかって座った。
「ねえ、ダイスケ」と母が僕をくりかえし呼んだが、絶対に開けない。僕は誰からも見えない。

4
扉に背中を預けたまま、日が沈み、部屋が暗くなっていくのを見るともなく見ていた。僕がなにも考えなくても、瞳孔の大きさは勝手に変わる。いまや部屋は暗闇に包まれた。
 ―あの日。

人生で初めて五厘刈りにした、お互いの青々とした頭を、僕たちはからかいあっていた。職員室で武道場の鍵を受け取り、走っていくところだった。「頭、似合ってんな」僕はいう。笑いながら。全然似合っていないからだ。すると、コウキが「おまえはいまいちだな」といい返してくる。嘘つけ、と僕は軽くいなす。クラスメイトにハゲとからかわれたときには、確かにそのとおりだと思ってなにも返せなかったけれど。

その日は四月の下旬、週が明けた月曜日だった。
前の週の練習で、部長のキタザワ先輩が一年生を集めてきょうまでに五厘にしてくるよういった。一年生は必ずそうしなければならないという。二年生以上は三ミリでいい。「髪の長いやつは弱いぞ」キタザワ先輩の声は野太かった。身長は一七〇後半くらいありそうで、体つきもがっしりしている。あと二年経ってもこんな三年生にはなれる気がしない。

武道場の鍵を開けたら、ぜんぶで八人の一年生はいち早く着替え、畳の上の掃除を始める。三年生六人全員が部室から出てくる前に、武道場に隙間なく敷き詰めてある畳を掃除してしまうのだ。部室は狭いから、三年生しか使えない。

掃除は八人がかりでいつもぎりぎりだった。もし一年生の入部数がもっと少なかったらと思うと恐ろしくなる。怒ったキタザワ先輩はほんとうに怖いのだ。

それなのに、ナガサキとワタナベがまだ来ていない。一年生のなかでいちばん強いふたりだ。ナガサキが一番手、ワタナベが二番手。

僕は彼らが苦手だった。一年生の役割のひとつ、練習の前に武道場の鍵を職員室で受け取り、練習後には返しに行く鍵当番を、僕とコウキのペアだけ勝手に週三回にしたからだ。ほかのペアは週一回なのに。

ようやくナガサキたちが姿を現したのは、掃除が終わりかけたころだった。キタザワ先輩たち三年生と一緒だった。信じられなかった。どうして、キタザワ先輩は彼らを怒らないのか。いつのまに、彼らは掃除をしないでいいというふうになっているのか。納得いかなくて、コウキのほうを見た。

コウキは二年生のクドウ先輩がかまえたちりとりに箒で埃を押し込んでいた。僕の視線には気づかずに、一生懸命やっている。武道場の正面の壁と畳の境目の、幅の狭いフローリング部分にちりとりは置かれていた。

近づこうとして、おかしなことに思いいたる。二年生のクドウ先輩がかまえたちりとり。ナガサキたちが遅れてこなければ、クドウ先輩が掃除に参加する必要なんてどこにもない。

クドウ先輩はちりとりの柄を握り、苦々しい笑みを浮かべている。コウキのひと押しでぜんぶの埃がきれいに入るわけではないから、何度もちりとりの位置と角度を変えてくりかえす。膝を折り、背中を丸め、そんなしみったれた作業を二年生がする理由はないのに。

その日の帰り、僕はコウキと並んで歩いていた。練習後、武道場の戸締りをし、職員室に鍵を返して、やっと校門を出たのは午後六時二十分ちょうどのことだった。これに間に合わないと、校門に立つ生活指導の先生たちにチェックされ、反則点をつけられてしまう。

反則点が部活全体で五点溜まると、連帯責任で一週間、早朝から校舎の掃除をする決まりになっている。だからよけいに鍵当番の回数は少ないほうがいい。校門にほかの一年生が待ってくれているはずもなくて、僕たちはふたり、帰り道を歩く。

「柔道部入ったの、まずかったのかな」
ぼんやり、いってみる。隣を歩くコウキの反応が怖くて、口に出したことを後悔した。

学校を出てちょっと行った先の歩道橋を渡っている。この時間、車の往来は多い。遠くにかすかに残っている夕焼けが歩道橋の上からなら見えた。油断するといますぐにでも夜の黒に押し出されてしまいそうな、細い赤色だ。

「なんで?」
コウキはそう訊いてきた。

いや、いいひとばかりじゃ、ないみたいだから―。
いいかけて、やっぱりちがう理由に変えておく。

「だってさ、めちゃくちゃ厳しそうじゃん。思ってたのとちがうっていうかさ。クドウ先輩はやさしいけど……キタザワ先輩とか。あと二年生のヒグチ先輩だっけ、あのひともすごく怖そうだし。それに、コーチだよ、あのひと練習中めっちゃどなる」

「確かに」コウキがものまねをして僕を笑わせた。
柔道部のコーチを担いながら名門の町道場でも指導者を務めているそのひとは、火曜と木曜は道場と時間が重なるので来ない。ほかの曜日は土曜も含め必ず来る。

年齢は五十代半ばに見える。浅黒い肌に広い肩幅、丸太のような四肢、しわなのか傷なのか判然としない線が複雑に刻まれた顔。

元々この学校に柔道を教えられる教師がいないときに、たまたま当時の校長が武道を重んじるひとだったので雇われたのが始まりらしい。何年も前からここのコーチを兼任しているそうで、ときどき「前の前の顧問は……」などと話しだすこともある。むかしは竹刀を振り回しながら指導に当たっていたが、さすがに時代が変わって数年前にやめたそうだ。

歩道橋の階段を下ると、すぐそこのY字路で僕たちは別々の道になる。コウキは左手の坂道を上がっていき、僕は右手の平地をさらに進んでいく。

一緒に並んで帰るといっても、そんなものだ。クラスもちがう僕たちはまだそれほど打ち解けていなかったし、名前も、お互い「おまえ」か名字で呼びあっていた。ナガサキが僕たちをペアにしたのは柔道部にふたりしかいない初心者だからで、悔しいが、僕たち自身もこのときは、まったく同じ理由でただ並んでいるだけだった。

Y字路の分岐点でコウキはいった。
「おれは、辞めないよ。どれだけ厳しくても」
坊主は嫌だけどね、と笑って、しゃりしゃり自分の頭をなでる。それで、「おまえも辞めるなよー」と、片手を少し挙げてさっさと坂道を上りはじめてしまった。こちらに背を向け、軽やかな足どりで進んでいく。

ぽかんとしたまま、僕は「おーう、またあしたなー」とその背中に声を投げる。おれは、辞めないよ。どれだけ厳しくても。ポケットに手を突っ込んで、横断歩道の信号が青に変わるのを待つ。そのあいだ僕は考えていた。ほんとうの理由をいっていたら―いいひとばかりじゃないみたいだから、と正直に答えていたら、それでもコウキは、どんなにつらくても辞めない、といったのだろうか。


    *  *  *(次回は近日公開予定)*  *  *

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