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ホームドアから離れてください 10┃北川樹

中学生の試合は三分間。ヨヨギ先輩の「始め!」の号令があって、僕がタイマーのスタートボタンを押して、ふたりともが気合いを入れるための声を出して、気づいたときにはナガサキの組手になっていた。釣手と引手、ナガサキはそのどちらもを、ヨシモト先輩より先に取った。引手は肘よりも奥を抱えるように持って、釣手は首の根っこのあたりを握って圧力をかける。

ヨシモト先輩は頭が下がり、腰が引けてしまって、完全に守りに入っている。僕の近くでコーチがぼそり「ありゃあだめだな」とつぶやく。ナガサキは、見た目にはそれほど力が入っているふうではない。むしろ軽やかでさえある。しっかり組んだ状態を保ったまま、すり足で移動をくりかえす。しかし、ヨシモト先輩はついていくだけで精いっぱいだ。

組み負けているのだ。一から十まで相手の組手になっている。左へ滑るようにす、す、す、と動いて、ナガサキの鋭利な足払いが飛ぶ。かろうじて繋ぎとめられていたヨシモト先輩のバランスがあえなく消える。

足払い。箒のように足を足で払うだけの、簡単そうな足技。けれど、これは習ったから知っている、全然簡単なんかじゃない。背負い投げのように担いだり、大外刈りのように脚を刈って倒したりしない―だけどダイナミック。オオハタ先輩が手本を見せてくれたとき驚いた。受けを務めていたクドウ先輩が、一回転する勢いで飛んだからだ。いや、浮かんだ、といったほうが近いかもしれない。だいじなのはタイミングと上半身だ、とオオハタ先輩はいった。

ナガサキの足払いで、ヨシモト先輩は浮きこそしなかったが膝をついた。それですぐにカメと呼ばれる四つんばいの防御態勢に入る。腋をきつく締め、両手で首を守っている。

ヨシモト先輩の首もとに、鈍い音が聞こえそうなほどのスピードでナガサキの手が突っ込んでいった。多かれ少なかれ殺意がなければああいうことはできない。ぐるんとナガサキが先輩を前転で越えるようにして、自分ごとひっくり返す。次の瞬間には先輩の体は仰向けになり、ナガサキの脚がその体を固く抑えていて、手は襟を使って首をギイギイ絞めていた。かは、という嫌な咳の音。ああ、と僕は思う。ヨシモト先輩がナガサキの腕を二回、叩く。

周りで見ていたほかの部員たちから落胆と驚きの混じった声がかすかに漏れ出る。

一本、と審判のヨヨギ先輩が宣言して、ナガサキの一本勝ちが決まった。

僕はストップボタンを押す。タイマーが二分と十数秒を残して止まる。ナガサキとヨシモト先輩が礼をして、試合場から捌ける。ナガサキは涼しい顔をしているし、ヨシモト先輩はどんな感情も奥歯で噛み殺している。

見ていられなくて、反対方向に目を向けた。コウキがいるほうの試合場ではツカモト先輩とフジワラ先輩が膠着状態になっている。組手争いがつづき、やっと組んでも、お互い警戒して技が出ない。手のうちを知り尽くしているのだ。僕は手元に視線を戻す。

「次、ハラ、ウチヤマ」コーチがいう。返事があって、こちらの試合場は静かになる。

いつのまにか雨が激しさを増している。高い天井から響く心地よいような低いノイズが途切れることなく時間を埋めている。特殊な雰囲気だった。いつもの練習も厳しい緊張感に包まれているが、はっきりいってその比じゃない。

部内戦はつづいていく。嫌な気持ちになってくる。強くなりたくて―そんなふうな言葉は、僕のどこから出てきたんだろう? 部員が試合をしていて、コーチが観察していて、そうやって部員の近い未来が決まっていくのを、タイムキーパーの僕はすごく外側から見ている。初心者コンビ。ほかの部員と完全に同化する日が来たら、僕たちはこのなかにいなくちゃいけない。

ナガサキはレギュラーに入るだろうか。その次に強いワタナベも入るだろうか。

強くなりたい。そう思った。

ナガサキや、ワタナベや、キタザワ先輩や、オオハタ先輩や、ヒグチ先輩や、副部長のヨヨギ先輩や、もうひとりの三年レギュラーのヨコヤマ先輩や、そういった強い人たちがどのくらい強いのか自分の体で理解できる程度には強くならなくちゃいけない。柔道部に入ろうと思ったときの気持ちとは全然ちがう。言葉は同じで、感情がちがう。

スタートボタンやストップボタンを押しながら、頭のなかで似たようなところを行ったり来たりしていた。

コーチに声をかけられたとき、反応が遅れたのはそのせいだ。

「クドウはきょういないのか」

コーチは、僕の胸ほどの高さがある一本足のタイマーに覆いかぶさって僕を見ていた。

突然のことに答えに窮し、僕は声にならない声を出す。体調不良と聞いている旨をやっと伝えると、コーチはふうんとうなずいた。わずかの間があって、「そうか」。残念がっているような声色だった。

「あさっては絶対来いって連絡しとけ」ぶっきらぼうにそれだけいって、コーチはタイマーから離れ、試合の観察に戻る。あさって―コーチの来ない火曜と木曜は部内戦をやらないので、部内戦の二日めだ。コーチはやっぱり、クドウ先輩と誰かの戦いを見たがっている。

この日、一年生で部内戦に参加したのはナガサキとワタナベだけだった。そして、ナガサキは三試合すべてに勝ち、ワタナベは二試合して一勝一引き分けだった。どの試合も当然二、三年生の先輩が相手だ。いつもの練習でもナガサキたちは強いが、ここまでではなかった。練習と試合はちがう? 本番に強いタイプということか。それとも、練習では力を抑えていたり―。

僕は首を振る。考えてもしかたない。

コウキと一緒に、強さについて話しあいながら帰った。

狭い歩道橋の上で、傘がときどきぶつかって雨粒が散る。柔道着を着るようになってから、荷物が急に大きくなった。柔道着はかさばる。だから、傘が雨を凌いでくれる範囲よりバッグがどうしてもはみ出して濡れてしまう。

「試合に勝てば、相手より強かったってことになる」コウキはいった。

「でもさ」と僕はいう。「それなら、大会で優勝したひとが参加者のなかでいちばん強いのか」

「そりゃそうでしょ、全勝なんだから」

誤って水たまりを踏んでしまう。水が滲み込んで足が冷たい。そういうことじゃないんだ、と僕は思う。勝ったから強い、それだけで済む話じゃない。

「ナガサキは強い?」
僕は訊いた。
「とても強い」

歩道橋はすぐに終わってしまう。雲のように輪郭をもたない自分の考えをどうにか掴もうと、僕はできるだけ時間をかけて階段を下っていく。早く行けよといわないで、ペースを合わせてくれるところがコウキらしかった。

僕は、
「じゃあ、ナガサキみたいになりたいって思うか?」
と質問を重ねた。

いったあとにはっきりと、これがもっともふさわしい質問だとわかった。自分の頭のなかで、シャッター音にも似た、やけに明快な音がした。まるで頭蓋骨のパーツの組み合わせがいままでまちがっていて、たったいま、正しく組みなおされたみたいだ。簡単なことだ。ナガサキみたいにはなりたくない。決して。

しかし、
「おれは思うよ」
コウキから出てきたのは、僕とは真逆の言葉だった。

おれは強くなりたいよ。ナガサキみたいに。

だってさ、とコウキはつづける。
僕は階段を下る足を速める。

「だってさ、ナガサキって、絶対いじめられたことないだろ」
むしろいじめる側だろ―コウキはへらへらしている。

僕はなんにもいわなかった。地面に薄く張った水が跳ねるのも気にせず、階段を一気に駆け下りる。なにもいわない代わりに心のなかで会話をつづける。ならおまえはいじめる側になりたかったのかよ。そう訊いたらコウキは、そういうわけじゃないけど、と答える。でも、いじめられるよりは、何倍もましだな。僕は唖然として、結局、次の言葉を探し当てることができない。現実でも、心のなかでも、どちらの僕も押し黙ってしまう。

しばらくして、「いじめるより」と僕はいった。僕たちはすでにY字路まで来ていて、じゃあなとひとこといえば、別々の道を行くのがいつもの流れだった。

傘をやや下げて目を隠す。面と向かっていうには僕はまだ弱かった。コウキの顔は完全に遮られている。首から下がまっすぐに立っている。

息を吸い、吐く。

「いじめるより、いじめられるほうが、何倍も強いだろ」

それだけをいい残し、点滅しはじめた青信号を、僕は急いで渡る。心のなかでは、さっきと同じように幻の会話がつづく。おまえはなんにもわかってねえよ、おまえだっていじめられたことないくせに。コウキが怖い顔でどなる。おまえのいう取り柄ってそんなもんなんだな、と僕がいい返す。そりゃあ好かれなくて当然だわ。そうして、この言葉がきっかけになって、初心者コンビは、幻の解散を経験した。

    *  *  *続きは書籍にてお楽しみください*  *  *

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