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ホームドアから離れてください 5┃北川樹

タキノを解約したら、このメールも消えてなくなるだろう。僕はそのことについて、どう感じるのが正解なのかわからなかった。僕はメールをしばらく見つめていた。ごめん。その四文字。

あの日、これを目にして慌てて家を飛び出した。寝巻のままだ。ほんとうはまず電話をかけようと思った。だけど指が震えてだめだった。頭のなかをサイレンがうるさく反響しつづけた。コウキ、コウキ、コウキ、と反響しつづけていた。ごめん、って、コウキ、コウキ、コウキ、と僕は考えた。一時過ぎなんていう真夜中に家を出たのは初めてだった。むろん、その時間に自転車を漕ぐのも。サドルから尻を浮かせ、前のめりになって漕いだ。コウキのマンションに行くには急な坂道を上らなければならなかった。自転車で上りはじめたが、あまりののろさに途中で乗り捨て、自分の足で走った。呼吸が荒くなるのに合わせてコウキ、コウキ、コウキ、と思った。二月の真夜中、凍えるほど寒いはずが、逸る気持ちに反比例して重くなる体は上気している。熱っている。肩で息をして、吹きつける冷風を呑み込む。

マンションに着くころには、メールを受け取ってから三十分以上が経過していた。マンションの上半分では灯りはまばらなのに、下半分では多くの部屋の灯りがついていた。僕はそれを遠目に見た。マンションから少し離れたところで立ち止まり、息を整える。救急車が来ていた。数人のやじ馬が救急車を囲むようにして集まっている。僕はゆっくりとそこに近づいていく。怖かった。現状をいち早く知りたい、というより、知るのが怖い、というのが上回っていた。だってもう間に合わないのはわかってしまった。

赤いランプが回転をつづけている。僕はタキノを握りしめる。

動かなくなった、コウキと思わしい少年が担架に乗せられていくところだった。やじ馬の肩越しに僕はそれを見つめた。僕ひとりぶんの空間くらいいくらでもあったが、肩越しでないと見ていられなかった。コウキはぴくりともしていないようだ。コウキの母親らしき人影が担架の横を離れずついていっていた。離婚を経てコウキをひとりで育ててきた彼女は、想像を超えて取り乱しているにちがいない。僕の、コウキ、と思う力が、ひどく弱々しいものに感じられた。

死の姿があいまいながらどこか近くに見えるような気がした。それは僕の背中をぞっとさせ、首すじをなでていく。コウキは死ぬんですか。僕は誰かに訊きたかった。誰か、確かなことを教えてくれる誰か。

コウキが死んだら、やっぱり、僕のせいですか。

救急隊員がやじ馬に道を空けるよういった。僕はあとずさりをして、そのまま振り返り、駆け出した。坂を下る。あまりの勢いに膝が悲鳴を上げた。無視して走った。すぐに救急車に抜かれる。サイレンの音が低くなる。坂もほとんど終わるというところに、乗り捨てた自転車が転がっていた。抱き起こし、またがって漕いだ。僕は全身に風を受ける。気持ちいいと思った。ばかじゃないか、と自分で思う。コウキが死ぬんだぞ。

僕は泣けなかった。なぜかということはよくわかっていた。だけど僕はコウキが好きだった。だから泣きたいと思った。でもだめだった。

家に帰り着いても、なかなか玄関に入れなかった。庭に自転車を止め、そのまま地面に腰を下ろす。両親にはなにもいわずに出てきてしまった。空を見上げる。横浜の空に星はない。きょうは月さえ見えない。「どうするんだよ」僕はひとりごちた。なにもいいアイデアは浮かばない。朝までずっとこうしていたい。

コウキの家はマンションの四階だった。きっとそこから飛び降りた。どのくらいの確率で助かるのか。死にたくてそこから落ちたら、ひとは生きられないのか。僕はタキノを取り出した。画面は家を出たときから変わらない。「ごめん。」と黒い文字が光のなかで無表情だった。ごめん。僕はいった。

いま、最後にその画面を見て、ほんとうに解約して後悔しないかどうかを確かめていた。

僕は首を振る。わかるわけがなかったのだ。結局、ちょうどニッタ先生からメールが届き、それが決め手になった。

ダイスケくん、お元気ですか。きょうは日本語の文から英文をつくる小テストをしました。多くの人が及第点をとりました。たとえば、「ミサはきのう、公園で本を読んでいました」という文。過去進行形っていうの。Misa was reading a book in the park yesterday.みんなどんどん英語が上達していく。すごいよね。わたし、ダイスケくんにまた英語を教えてあげられる日が早―

最後まで読まないうちにタキノの電源を切った。それで、よろしくといって母に渡した。「ほんとにいいの」と母が訊いた。僕はうなずいた。

タキノのなくなった生活は穏やかだった。悪意にみちた連絡が来ることも、善意にみちた催促が来ることもなくなった。ただしひどく退屈だった。外の世の中と唯一繋がっていたものがぱたりと止んでしまったせいだ。でも、あのようなねじれて濁った世の中なら、これでかまわない。

やがて僕は、退屈しのぎにオンコチシンを始めた。世の中と繋がる代わりに、むかしの自分と手を繋いだのだ。いいアイデアだと思った。

世の中は温故知新で進んできた。なんだってそうやって生まれた。ゼロから物事は現れないし勝手にゼロに戻ったりもしない。あらゆることにはもとがあって、恐竜の時代から綿々とつづいている。

だから、僕もそうやって生きていけるにちがいないと考えていた。

しかし古い僕は尽きた。オンコチシンの二周めの途中で、僕は飽き飽きしてしまったのだ。どうしようもない。僕はすでにむかしを食べ尽くした。七月半ば、梅雨の明けるころだった。

それからの毎日は絶望の色をしていた。やることがない。朝起きる時間をもっと遅くして、寝る時間をもっと早くした。一日の大部分はふとんのなかで過ごした。タキノを手放してしまったことをやや後悔した。タキノさえあれば、インターネットでなにかおもしろいものが見つかったかもしれない。だけどもう遅かったし、いまさらタキノを新しく買ってくれなんて、いえるわけがない。

読む本がなくなり、三冊調達してもらった。だけどどれも児童書だった。母は僕をまだ小学生かそこらだと思っているらしい。そういう本を読みたいのではないのだ。そう訴えると「だってくじらの本が好きじゃない、ダイスケ」といわれた。夜ごはんの席でのことだ。

「あれはくじらの話じゃないって」と訂正しても、あまり腑に落ちないらしかった。僕はいらいらして舌打ちをした。父は仕事の都合でまだ帰ってきていない。もしこの場に父がいたら、めんどうなことになっていただろう。

「でも、小学生が主人公でしょう?」
「中学生もいる」
「うーん」母は首をかしげて唸った。
「それに、挿絵もない」

母の買ってきた本にはところどころ挿絵がついていた。僕はそれがどうしても気に入らない。字も大きい。ばかにされている気がして、初めの数ページだけ読んで放り出すことになる。

「ぱっと見は嫌でも、辛抱して読んでみたら?」母はしぶとくいった。「しばらくは本屋に行けないから」

そんなことがあって、ここ数日は児童書を読んでいた。三冊のうち二冊はやはりだめだった。幼稚でうんざりする。けれど、残りの一冊は意外におもしろかったから、僕は母に対して決まり悪くなった。

帽子をめぐるふたりの少女の話だ。挿絵は写実的で、思ったより子どもだましという感じはないのだった。ひとりの少女が古いマンションに引っ越してきて、不思議な少女に出会う。越してきた少女は初めマンションの古さに不満ばかりいっていたが、その子と一緒に探検するうちに、しだいにそのひみつ基地のようなマンションが好きになっていく。

しかし、そんな楽しい読書も、永遠にはつづかない。

読み終えるとふたたび、することのない生活が始まった。押し入れを開け、ちょっと漁って、ため息をもらすことをくりかえすほかなかった。

父の仕事も母のパートも休みの日、僕がやっぱりため息ばかりついていたら、それが父の気に障った。昼、エアコンを強くしていなくて、リビングは暑かった。父は新聞を広げて読み込んでいた。僕はなにか冷たいものを求めて自室から下りてきていた。父の背後にある冷蔵庫を探ると、バニラのアイスクリームがあるにはあったが、希望とはちがっていた。それで僕は、これしかないのか、と大きめのため息をこぼした。

「気に入らないなら、食べなかったらいい」

僕に背を向けたまま父が低い声でいった。
え、と僕は聞き返した。
父は新聞をめくる。

「学校に行かない、外にも出ない、勉強もしない、なにかつくったりもしない、そんな人間が親の金で買ってもらったものに文句をつけるのは、すじが通らない」

「べつに文句じゃないけど」僕は父の背中に正直怯えていた。

「文句かどうかは、聞いた者が判断する」父はあくまで冷静に答える。「誰も、自分の意図がそっくり伝わると思っていると失敗を招くんだ」

「とにかく、文句じゃないから」このめんどうな会話をいち早く打ち切って、バニラアイスを二階に持っていこうとした。

「食べるなといっている」父はいきなり振り向いて、僕の腕を掴んだ。強い握力で、まるで僕のことを憎んでいるみたいだった。「ダイスケ。向上心をもて。コウキくんはすでに立ちなおって―」

「ねえ、それは」黙って耳をそばだてていたらしい母が口を挟んで、

「なんでコウキがここで出てくるんだよ」

と僕がいった。それと同時に腕を勢いよく振って父の手をほどく。腹が立っていた。耳が熱くなり、意に反して涙が出そうだった。唇を噛んで耐えた。ああ要らねえよ、こんなもの、とバニラアイスを冷凍庫に乱暴に戻し、最後にどなった。

「おれも飛び降りたら、立ちなおって学校行けるようになるかもな」

悲鳴に近い声で母がなにか叫んだ。

    *  *  *(次回は近日公開予定)*  *  *

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