結果とそこに至るまでの過程評価

我々は常に何かしらの身分、職業をもって生活をしている。
その身分は無償で得られるものもあるが、原則的には有償で得られるものである。例えば学生の身分は入学試験を受け合格し、当該学校に学費を納めることでその身分を獲得する。また、社会人においても同じである。公務員であれ民間企業であれ、公務員試験やSPIのような入社試験、さらには資格を必要としているところもある。法曹になろうとするものは司法試験を受け合格し、司法修習を終えた後にそれぞれのキャリアを歩む。この過程は入学や入社後に努力した証として誇りや自信につながる。

しかし、世間ではこの過程は全くもって評価されないものであり、その身分を有するか否かで判断されることになる。
つまり、学生であればその入学試験のためにした努力過程はほとんど評価されず、ただ当該学生であると言う身分結果のみに拘束される。例えば、「私は東大を目指していたが落ちてしまい、早稲田大学に通っています。」という自己紹介は、結論は早稲田の学生であると言うだけで、東大に落ちたことには何の価値もない。むしろ東大に落ちたことをアピールすることで東大に対するコンプレックスであると思われるだけなのである。

このように世間というのは過程や結果のための努力は考慮されるものではないし、その過程のための制度やルールを知らない者も多い。
例えば弁護士という職業を例にとっても、司法試験に合格する必要があるというところまでは知っていても、その試験科目や難易度については知らないものが多い、確かに私も関心のない職業等についてはその詳細は知らない。しかし、その詳細を知らないからといって難易度をネットの評価のみで簡単だと決めつける者がいるのが現状である。
この特徴はSNSによくあることである。TwitterやYahooコメントなどのような匿名性の高い場所においては自己の顔や名前を出さないで良いことに甘んじて難易度の決めつけ等を行っている者の投稿を有識者が若干怒り気味に引用している現状を傍観視していると、人類にネットというのは早すぎるのかと悲観してしまう。
特に、かつてワイドショーを賑わせた某氏が某国某州某試験を受験するとなった時もネット上では難易度の決めつけや不合格だった際の反応、また、架空の結果に対しても陰謀論じみた意見が多い。
所詮、結果を出せなければ意味がないということであるが、一定の知名度有する人間は結果を出しても某氏のように叩かれることもある。

このような意見を全く気にせず自分らしく生きていければ楽なものであるが、そのようにはいかない現状打開策をこれからも思案、思索していきたいものである。

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