平等とは何か

今日、世界的な潮流として「平等」が掲げられている。
どんなハンディキャップを持っている人も、どんな性的マイノリティでもすべての人間は平等であるべきとする考えである。
この考えは確かに素晴らしいものだ。すべての人間はどんな負荷を負おうとも等しく人間であるという当たり前の再確認、人に優しくしようという意識の発生。どれをとっても良い方向に傾くだろう。

しかし、それは果たして「平等」なのだろうか。
goo国語辞書によれば、平等とは「かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。」を意味するわけであるが、まず、身体障害者と健常者を同列に扱おうとすることは差別なのではないだろうか。
すなわち、まず前提として健常者とハンディキャップを持つ人は等しくない。その状況によって不当な差別を受けることを防止するために平等を掲げているのであろうが、実情として、障がい者に優しい社会を作ろうとするにとどまっているが、障がい者に優しくすることは健常者に対して無意識な差別状態が発生する。詳細に言えば、障がい者に「だけ」優しい社会とは健常者には大して優しくない社会ということができる。もちろん、健常者には自律する意思があり、それを実現することが容易である点を考慮すれば、なんらおかしなところはない。しかし、それでは先ほど示したような「平等」とはズレるのではないだろうか。差別のない社会を作るために障がい者に優しくした結果、健常者にはなんの施しもないのでは平等な社会など実現できるわけがないのである。男女平等と言いながら女性には生理休暇はあるし女性専用車両も存在する。しかし男性にそれに類似する休暇はないし、男性専用車両も存在しない。果たしてそれを平等を言えるのであろうか甚だ疑問である。

ではこの社会はどう表現するべきか。これについては簡単な答えが存在する。すなわち「公平」である。goo国語辞書によれば公平とは「すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。」と解されている。
重要なのは後半の「判断や処理などが、かたよっていないこと。」である。一見すれば平等と同じに思えるがそこにはれっきとした差が存在する。すなわち、偏りがないというのは、例えば、身体障害を持つものと健常者では明らかな偏りがある。しかし、公平はこれを身体障害者に優しい世界にすることでその偏りをなくしている。つまり、皆に同じ扱いを施そうとするのではなく、一部のハンディキャップを有する人たちが不自由のないように施すものである。全員が100になるのではなく、ハンディキャップを持つ人が健常者と同じ数値になるよう尽力する。これこそが平等との決定的な差異である。
これらにの事情からわかることは、「公平の本質は不平等にある」ということである。人は誰しも平等にはなれない。しかし公平に接することはできる。それは不平等な扱いを容認していることに他ならない。だから我々はいい加減に自覚しなければならない。人類は差別主義者の集まりであることを。どれだけ平等を掲げたってどこかで差別的観念は存在するし嫌いなものや気持ちの悪いことは避けたい。綺麗事を並べて周りにいい顔してその場でだけ平等をアピールするような奴もどこかで何かを嫌っている。果たしてこの状況を目の当たりにしてもまだ自分は差別主義者ではないと言い張れるのであろうか。差別は悪いことではない。もちろん悪意によって晒される差別は避けなければならない。黒人差別や人種差別は誰かの利益のために差別ではない。私のいう差別とは、公平であるために差別であるということを強調しておきたい。黒人差別や人種差別は公平のためではなく単なる憎悪の感情による差別である。一言に差別といってもこのような違いはある。それは認めなければならない。


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