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まふまふと反出生主義について

数年前から注目していたアーティストのまふまふが昨年末の紅白歌合戦に出場した。メットライフドームライブ、東京ドームライブと続き、大きな快進撃を見せている存在だ。

そもそも彼はニコニコ動画出身の歌い手であり、インターネットの活動を中心に、コミックマーケットでのCD販売などを経て、このような大きな存在になっていった。このようなアンダーグラウンドから大きな舞台へと駆け上がったことも僕が関心を寄せている理由でもあった。

しかし、ただ単純にアングラからの出世という意味だけで注目しているのかというとそうではない。彼自身の楽曲内容に関して、批評的な意味で非常に重要なものがあるからではないかと思ったからだ。それはいくつかのポイントがあるのだが(ネット・ボカロ文化をはじめ、セカイ系など)、ここでは近年思想的にも注目されている「反出生主義」に焦点を絞って簡単に論じていこうと思う。

「反出生主義」(アンチナタリズム)とは読んで字のごとく、出生に反すること、つまり「生まれてこない方がよかったのではないか」という考え方のことだ。日本だと哲学者の森岡正博が紹介をしている。

現在、この反出生主義的な考え方が蔓延していると森岡は指摘する。そしてそれはSNSの影響やインフォームドコンセント、また社会の無痛化が進んだ結果ではないかと述べている。

まふまふの楽曲は反出生主義的なものが多い。例えば、直球のタイトルである「生まれた意味などなかった」はまさにそうだ。

何者にもなれる命で
救えるものひとつもないのだ
これほどに器用な手先で
救えるものひとつもないのだ 僕たちは

底知れた愚鈍な世界だ 書き物に筆を取れども
ぶちまけたインクのそれが ひどく適切ではないか?
死にたいかと言われりゃ 特に死ぬほどの孤独でもないが
生きたいか問われたら 何も言えない

虚しさに適した表情はどれだ
書き始めの言葉は

『生まれた意味などなかった。』

まふまふ「生まれた意味などなかった」

死にたいか言われれば死ぬほどの孤独ではなく、生きたいかと言われれば何も言えない。ここには生きることに対する消極性がこの歌詞には見られる。

近年、純文学をはじめとする「文学」はどこか暗い作品が多く発表されていた。いわゆる「ディストピア」という言葉がキーワードとなるがそれらの作品群はいわば震災後もなお続く日本の停滞感、また現在は新型コロナウイルスによる行く先の見えなさが関係している。そして加えるとネットという場所が清濁合わせ持つものとして機能してしまっている部分が強い。

例えばテクノロジーとネットが発展した現代の延長線上を描いた文学作品である平野啓一郎『本心』はディストピア的な社会の中、自分の生きる意味を見出せない主人公が登場する。

その一節で次のような言葉がある。

問題は「生きるべきか、死ぬべきか」ではなかった。ーー「方向性」としては、そう、「死ぬべきか、死なないべきか」の選択だった。

平野啓一郎『本心』

テクノロジー社会が行き着く先はユートピアではない。生に積極的になれない内面が登場する。ここで描かれるのもまふまふが歌詞で書いたような生きることへの消極性である。

まふまふはネット発のアーティストということもあり、このネット社会のディストピアを描いた楽曲がいくつか存在する。その一つが「ハローディストピア」になる。

ぱっぱらぱーで唱えましょう
どんな願いも叶えましょう
よい子はきっと皆勤賞
冤罪人の解体ショー
雲外蒼天ユートピア
指先ひとつのヒステリア
更生 転生 お手の物
140字の吹き溜まり

(中略)

さあ
炎上 炎上 誰の惨状
沸いて遊びたいバカばかり
手の空いたヤツから順番に
処刑台へあがれ
ここらで 問題 問題
ボクら手を取って 守ったものは何
御名答 ディストピア

まふまふ「ハローディストピア」

今ではあまり意識されないかもしれないが、「140字」はTwitterを象徴しているワードだ。まふまふはネットという場所から発信をしているからこそ、その負の側面も理解している。ネットの度重なる炎上。「沸いて遊びたいバカばかり」というのはネットの行き過ぎた「祭」のことにあたる。これらは人々が作り出した「ディストピア」に相違ない。

現在のディストピアはそれこそネットやテクノロジーによるものから発している。ディストピアは古くからはジョージ・オーウェル『1984年』などからくるものだが、テクノロジーによる人間の管理という部分が強い。まるで人間を家畜のように扱っていく。だからこそ人間性の否定の側面がある。

高度福祉とテクノロジーの両輪によって人間を環境管理していく社会を描いた伊藤計劃『ハーモニー』は、そんな現代社会の行き着く姿を描いている。本作のラストはネットワークによって人間の本質とも思われる意識=「私」を消していく。これはネットという空間が自己を表現する媒体でもあるが、同時に自己を殺していくこともあるという寓意になっている。


まふまふ自身、一般的な「人間」であることの違和感を持つ。猫になりたい、女の子になりたい、リア充になりたいといった楽曲、また自身をロボットに見立ててるものもある。一見するとどこかユーモアを交えたポップで明るく、笑えるような曲も実は自身の否定が根本にあるようにも思える。


そもそもボーカロイド曲を作曲し、また他の人の作った曲を歌ってみる「歌い手」という出自も、人間というものの否定や、自己の消失を連想させる。そんな自己の徹底的な否定をひっくり返した先に彼の楽曲は存在している。それはただの「明るさ」「ポップさ」ではない。

自己を否定した先に他人の言葉を借りて歌うこと。今回紅白で歌った「命に嫌われている」もまふまふ自身の楽曲ではない。カンザキイオリのボカロ曲だ。彼自身、あえて自分自身の楽曲ではないものを歌ったのは、自分のルーツである「歌い手」として紅白に出ることで、ネットで活躍する人の間口を広げるという意図があったという。しかし、上記のことを踏まえると、そのパフォーマンスとその楽曲の歌詞はそれ以上の意味を持ってくる。

命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちてく。
それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて
殺してあがいて笑って抱えて
生きて、 生きて、 生きて、 生きて、 生きろ。

カンザキイオリ「命に嫌われている」

自己否定の中でも生きざるを得ない状況。それでも必死に生きることを、他人の言葉を借りて伝える。そうやって自己をギリギリ存在させて歌うまふまふの「生きろ」「生きると言え」という言葉はただの説教ではない。生きる意味の喪失に寄り添いながらも共に生きることの表明なのだ。

だからこそ、未来が見えないディストピアの中で、生きる意味の見出されにくさを感じ、簡単には死ねずに「生きてしまっている」僕たちに、彼の歌は届くものになっているのだろう。

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