連載:「写真±(プラスマイナス)」(倉石信乃×清水穣)第5回 Google ストリートビュー / ストリートビュー、「風景の死滅」 文:清水穣

「写真±(プラスマイナス)」概要/目次

第5回 Google ストリートビュー
GSV雑感 文:倉石信乃
ストリートビュー、「風景の死滅」 文:清水穣

 2021年の節分は124年ぶりに2月2日であった。節分は立春の前日と定義され、立春とは24節気の一つであり、24節気とは、地球の公転軌道を24分割したそれぞれの地点を指すそうである。地球の1公転を1年と数えるが、それはグレゴリオ暦の1年とは一致しない。宇宙の運動を暦のシステムで近似する結果、小さな誤差が累積するので、定期的に閏年や潤月を設けて誤差を調整する、それに応じて暦上の節気がずれ、節分もずれるのだ、と。
 グーグルマップ(以下GM)、グーグルストリートビュー(以下GSV)の開発者の一人による回顧録が「Never Lost Again」と題されているように (*1) 、約10年前から、我々は道に迷うという経験を忘れてしまった。旅は、少なくとも電波の届く範囲では、その全行程に渡って予見可能で予定可能なものとなった。逆に、旅に出かけるにあたって、ホテルの環境と位置、交通手段、さらには目的地の位置などを検索せず、GSVで予め下見をしないことのほうが難しい。GSVの写真世界は実際の現実でないと解っていても、ネットワークの電波が地球を漏れなく覆うにつれ、そしてGM・GSVの精度が上がるにつれ、旅はGSVを越えなくなっていく。それは出逢いを失い、予定・予見された旅程の消化となり、つまり旅ではなくなった。
 デジタルな世界とは、一人一人が、アノニマスではあっても特定されている、すなわち、もはや「誰でもない者」にはなれないが、「誰でもよい者」の一人として特定されている世界のことだ。位置がGPSで認識されているなら、それは標的として特定されていることである。首には縄が巻かれており、「誰でもよい」程度に応じて縄が伸縮する範囲が、われわれの自由である、と。しかし反対に、認識されず、特定されず、縄がついていない者がありうるだろうか。GMとGSVに限らず、すべての地図は地政学的な支配者の視点、神の視点から作られるが、その視点から支配する(地図を利用する)ために最も本質的な条件は、地図上の現在地の特定、すなわちGPS(Global Positioning System)である (*2) 。そしてGPSが高度に政治的軍事的なシステムに成長した現在、権力闘争はそのシステム上で演じられるだろう。そのとき権力者にとっては、自分だけGPS不明の「誰でもない者」になることが重要であるが、自分の現在地を欠いたままGPSを利用することはできない。従ってそれを偽ることになり、偽りのGPSを発信する技術はとうぜん標的のGPSにも転用できるから、結局、権力闘争の果てにはすべての標的のGPSが信じられなくなり、GPSは闘争の抑止力として機能するに至るだろう。
 100%の可視化を目指す監視カメラやスパイ衛星の画像とは異なり、GSVの面白いところは、見渡しの効かない地上に降り立ち、その不可視性を通じて擬似的なリアリティを演出することにある。つまり、GMからGSVへの展開は、神として支配するためには地上に降りなければならないというGPSシステムのパラドクスを、リアルタイムではない写真世界の中で無害化することであった。GSVで覗き見できる街の風景は過去の景色にほかならないが、それはGPSシステムの囚人に、自由な降臨の感覚を与えるのである。降り立てるストリートは決められているとはいえ、地球上の、おそらく生涯で一度も行くことのない世界の片隅に至るまで(パタゴニアの田舎道からヨハネスブルクのスラム街まで)カバーされており、360度の写真によって、それぞれの街角で周囲を見回すこともできる。また更新の頻度次第だが、場所によっては過去の写真が蓄積されているから、同じ街角で去年、3年前、5年前…と時を遡れる(東京の中心部など)。まさにGSVによって世界は隅々まで写真化し、その写真が刻々と更新されることで過去すら生まれている。旅を失ったわれわれは、写真でできた緻密で広大な過去の世界に遊ぶ自由を手に入れた、と。

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