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あの日、死にたいと願いながら、私は甲板に揺られていた。

※ネタバレ有



1.
余裕。そんなものはこの旅において、一ミリたりとも残されていなかった。前日まで課され続けたサークルでの雑務、実習で専門分野に触れられることへの喜び、やりたいと切望して願ったはずの記事の締切、ベースを弾けるようになった歓喜、片付いていない皿と大量のレポート、身体を突き破るほどの知識欲、それを消費できない己への自己嫌悪、長年の夢であったバー・ルパンでお酒を飲めるという事実、切るに切れない人間関係への苛立ち、浦島坂田船が10周年を迎えて立つさいたまスーパーアリーナでのライブを見守れるということへの喜び、一生守り通しても後悔のないと初めて思えた或る恋愛に於ける一身の愛、それをきちんと「愛」する為に自分に課した己の執着からの脱却、日に日に増していく自意識過剰と自己愛と自己矛盾、アルバイトをする為に親への電話ひとつかけるのに抱く精神的苦痛。まあ塞翁が馬と言うべき、不運と幸運とがない混ぜの、歓喜と希死念慮が始終私を覆っていた。ただこれらの列挙したものが私の不安の原因というのはまた何かが違っている。正直私には何が不安の原因で、何が苦しいのか、よく分からない。これは珍しいことではなかった。私にとって他人よりも自分自身という存在の方がよくわからない。いつも路頭に迷っている。だって、人間が好きなようで嫌いで、優しいように見えてその実私の中には全然優しい部分なんて残されていない。だからついつい、私は優しいふりがうまいだけだと自分に対して思うし、口に出す。口に出すことで「そんなことないよ」と言われることで満たされるちっぽけな自己顕示欲と承認欲求だけを頼りに生きている。こんな人間、善人ではないだろう。そもそも、善人だなんて誰が決めるのだろう。例えば善人は人を殺さない。けれど、今目を瞑って次の瞬間私が人を殺さないという自信はどこからやってくるのだろう?自分が犯罪者にならないという自信を100%持ち得るなんて、私には不可能だ。私の持ち得る加害性を常に意識しながらその実、加害性から目を背け、加害しないという選択肢を繰り返していくしかないだろう。だって自分が一番ありえない自分が、一番ありえる自分だと思うから。……そんな風に延々と考え続けていると、なんだか本当に殺人者になってしまったような気がして、急に消えたくなる。そんな思考回路をぐるぐると回しているうち、何時間も時間が経過していて、仕事が終わらず、慌てて走り出すことになる。変人だと思ってもらっていい。本当は普通に真っ当に生きたいと思っているけれど、もうそれは不可能なのだなとここ数年で実感させられた。そしてまた何かに取り憑かれたようにせっせとああしなきゃ、こうしなきゃと己に課して必死になって、でも片付かないままで、そんな自分が嫌で、何とか泣くのを堪える。いつものことだ。

それが、ある時ぷっつりと切れた。親に電話をした。アルバイトをしたいこと、GWの予定、3〜4ヶ月止まっていた生理が今になってきた事。(ライブ前日に来るなんて、本当にツイてないなと思った。ここだけの話だ。)それを話そうとして、最後に埼玉に行ってくるね、と言おうとした。けれど、喉から出ようとした埼玉へ行く言葉を母親はピシャリと切った。ここ最近のサークルの仕事について聞かれたので、嫌な予感がしながらも答えると、ごちゃごちゃと文句を呈した。それはかなり正論で、確かにその通りだと思った。でも、もう今すぐ死んでしまいたいほど苦しいのを浦島坂田船のライブでどうにか持たせている今の私にとって、その言葉はあまりに辛かった。親は知っているはずだ。私がどれほどサークルの仕事を押し付けられ、意見もろくにできない怠惰な人間の間で押し問答にあい、その仲裁をしながら問題解決能力のない人間の前に立って、どうにか人間を動かしていたということを。理念も理想も何もない、けれど地位と結果だけは欲しがる怠惰な人間に、何ができる?そして何をさせればいい?そして意見が言えるだけでサークルの代表に仕立て上げられて、もうなんだか生きる意味すら見失いそうな、そんな今。仕事を放り出したいけれど、そうするわけにもいかないから必死に足掻いている、今この瞬間に、「お前は責任がない」そんな言葉を平気で吐く両親に、すっかり心を閉ざしてしまった。アルバイトをやりたいという話を持ち出したけれど、このスイッチが入った両親は止められない。専門分野の勉強がまだまだ足りていないと叱責され、「単位も満足に取れないのに文学やら音楽やらの道楽に走り、お前は何をしたいんだ?専門分野に関係ない分野のアルバイトをやってなんになる?」とまで言われた。辛かった。違う。違うのだ。植物を愛しているからこそ、今の私は植物を愛せなくて。本当に今の私に植物をやる資格があるのか、それをずっと迷っている。言えていないだけで。そう言えていないだけで。こんなことを言うとまた気にしすぎだよと笑われるしそれなら研究しなくていいとまで言われそうなのが分かっているから、それが怖くて口に出せないのだ。嗚呼、何も言わずに私のやりたいと思うことにニコニコ微笑んで、「頑張れよ」と応援して欲しかった。そして満たされた承認欲求だけで頑張れるのだ。BUMPの66号線の歌詞のように。でも現実は「何を考えているのかわからない」「やりたいと言う意思だけがいつもあってなんのビジョンがあるのか不明だ」「現実味がない」「理想論ばかり語るな」と言われる。そのくせ、後から成果を事後報告すると褒めてくれるけれど絶対最後に「心配するから最初に報告しなさい」と言う。もう嫌、いつもそうだ。だから何かをしたいと思う時、いつも怖々としてしまう。反対されないか、いつも不安だ。それが怖くて、いつも親の目をかいくぐろうとしてしまう。自由とはなんだろう。無意識のうちに「いいこ」じゃないと愛されないのではないかという意識が、昔から私には根付いている。そんなことを両親に口が裂けても言えないけれど。いや、言ったことはあるけど、絶対分かってもらったと思えない。家族は大好きだし、両親だって感謝はしている。だから、他の大変な家庭のようではない。だからこそ、こんなことで悩んでいる私という人間の存在価値を、いつも見失ってしまう。そんな調子で、授業にはついていけているけど、精神状態はほんの少し強くなっただけ。相変わらず1日に1回は死にたくなる。今、らんまんがテレビでやっているからと牧野と比較して両親から「もっと真剣にやれよ」と言われた時、心がバラバラと崩れてしまいそうだった。そうして、親との電話を終えて、首を吊りたくなった。この瞬間、この瞬間だけは、明日あの綺麗なペンライトの景色を見るということが自分には耐えがたい苦痛だった。信じられないだろう。だが、生きていなければならないという義務感が、ここまで苦痛なのだというのは、なったことがある人間にしかわからないものではなかろうか。決して楽しみにしていないわけではないのだ。フラスタも、ファンレターも解禁になり、ファンレターに書きたくて色々言いたいことはたくさん用意してきた。でも、膨大な物事に押しつぶされると、何も言えなくなっていた。こんな私に何が言えるだろう。眩しくも何もない、優しくも何もない、こんな私に推しの背中を押せる言葉が出せるだろうか。身近な人も愛せない、愛そうとしても手を伸ばすことが怖くて檻を作って、ってBUMPの歌詞かよ。浦島坂田船のライブの前なのになんでBUMPの歌詞が浮かんでくるんだよ死ねよ自分、そんなことを考えて、また苦しくなった。ライブ前日に何も楽しいと思えない、むしろ首を吊る原因がなくなって苦しいだなんて歪んだことを言っている自分、こんなのがこの船に乗っていていいのか。本気で迷った。けれど、時間は残酷だ。眠る時間が近づいて、仕方なしに色んなことの妥協に妥協を重ねた最低点の出来事をやって、布団に潜り込んだ。
そして、ライブ前とは思えない程短く浅い睡眠から覚めて、荷造りと皿洗いを終えて、ゴミ出しと朝食を諦めて、始発の列車に乗り込んだ。イヤホンも、上着も持ってきていない。半袖にキュロットの寒々しい格好。メイクもしていなければ、寝癖がついたまま。それでもどうにかこの日を迎えて、今こうして文章を書いている。

絶望だらけの日々の隣に、いつも無条件で私を楽しませてくれる浦島坂田船という船が、一体今日はどんな希望を見せてくれるのだろうか。1通のメールが入る。父親からの「言いすぎた」の文字が見える。暗い暗い夜の中から昇る朝日が、ちっぽけな私を煌々と照らしていた。



2.
列車に揺られて、さいたまスーパーアリーナに着いても、何も実感は湧かなかった。徐々になんとなく薄れていく希死念慮はあれど、ただただ義務のように、ライブ会場へ向かっていた。けれど、crewが運んでくる、緑、紫、赤、黄の色を眺めているうち、色んなことを徐々に思い出していた。

嗚呼、あれは中学3年生の蒸し暑い夏のこと。
浦島坂田船に出会った。正直ちゃんとしたことは覚えていない。けれど、あの頃の断片的な日々は、覚えている。いじめられて麻痺したストレスをフルに感じてしまった日、衝動的なリストカットと自殺未遂が辞められなくて、何度も首を吊ろうとしたこと。スクールオブロックの校長の言葉に反発したこと、Carry Fowardがきっかけで正気に戻ったこと。死にかける度に、浦島坂田船の言葉と声と歌に何度も救われてきたこと。空気が読めない自分が社会的に生きていく為に必死に馴染もうとしていたこと。キャラバンサライでライブをした浦島坂田船、バラバラで知った4人が実は一つの大きな船に乗っていたこと。浦島坂田船を知っていく過程、そして浦島坂田船と出会う前、出会ってからの一つ一つの日々は、どうしようもないほど普通の日常だけれど、今思えば今の私を形作る上で、必要な日々であり日常だったのだと思う。そしてもう一つ、高校生になって、というか浦島坂田船を好きになって、私は本当の意味で自分の好きなものに対してちゃんと向き合い、自分の頭で考え、きちんと発言し、責任を持とうと決めたことを思い出した。中学生の頃にRADを好きになった時も、好きになったからには責任を持って好きでいよう、そう思わないわけではなかった。けれど、浦島坂田船を知って私がより強く思うようになったのは、私自身が「好き」に対してどう向き合うかだった。何度も炎上する、治安の悪い界隈の中で、いかに私が過ごしていくのか。いかに、推しに好きを伝えるのか。そこには必ず私自身の信念が内在する。crewという名前を背負う以上、何かを愛する以上、そこに信念がなければ成り立たない。いつしか、そんな気持ちが私の中に芽生えるようになっていた。

気がつくと、さいたま新都心駅に着いていた。まるで高知から埼玉への道のりの中で、浦島坂田船に出会った頃から今の時間へとようやく戻ってきた気がした。自分の身の回りは、すっかり4色に染めこまれていた。その瞬間、そうだよな、crewって実在するんだよな、と思った。よく考えたら(今回相互に会うことは無かったが)今、この瞬間全員相互がこの空間の中にいると思うと、もうダメだった。嗚呼、泣き出しそう。好きなことを好きだと言えない人間が、いつからか自分の好きなことに信念を持つようになり、そして今日このさいたまスーパーアリーナで大好きな人たちを見守り、4人へ大好きを伝えることが出来る。しかも、自分の好きに、ずっと自信がなかった。けれど、私がそれでも好きなことを好きだということを諦めたくなかったのは、浦島坂田船と、何よりそんな4人を心底大好きでいる、良心的なcrewのオタクのあり方に、何より私が憧れていたからだった。そんな愛しき相互が全員ここにいる?この、さいたまスーパーアリーナに。なんの冗談だろう。けれど、それはもう事実だった。
誰にも会うことなく、でも胸はいつしか温かい。あんなに死にたかったはずなのに、いざこの舞台を目にすると、楽しみにしている自分に気づいた。

会場ゲートへ足を踏み入れようとして、私は振り返った。高知から埼玉までの道のりを。そして、これまでの日々を。中3の頃の私、聞いていますか?一つでも良いから円盤が出て欲しいと願った円盤は、きちんと出たぞ。ホールツアーもやったぞ。小さなキャラバンサライでライブをしていた推しは、いつしかさいたまスーパーアリーナのスタジアムモードを埋められるようになったんだぞ。死にたくて仕方ないのは、全然変わらないけど、でも過去を振り返る勇気が私にはある。そうして、私は白い煙と4色のペンライトが徐々に灯り出す舞台で、一つの光となる為に足を踏み入れた。

SEが流れ出す。一曲一曲に込められた思い出が蘇る。そして手拍子と共に、浦島坂田船コールが鳴り響く。そして……一気にペンライトの海が揺れ始めたその瞬間、10周年の船旅が始まった。


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埼玉、高知、兵庫、京都。それぞれの4色の光が1箇所に集いながら過去のライブの思い出を振り返る、序盤映像。もう、早くも涙が溢れ出した。次々と埋まっていく47都道府県のピース。そして最後にはまるのはここさいたまスーパーアリーナ、そう埼玉県。

そして、流れ出す私の人生を救ってくれた、あの曲、「Carry Foward」。夢ではないか。そう思った。光の中から現れた4人は、誰がどう見ても立派な海賊。そう、我らcrewの船を率いる、海賊達4人───私がずっと見たかった景色が、そこにあった。席から見える4色のペンライトは、一つ一つがかけがえのない光で、4人を照らす。絶景とは、かのような景色のことを言うのであろう。


3.
本当に素敵なものを見た時、人は言葉を失う生き物なのだということを、やはり実感せずにはいられなかった。セトリを見返し、MCを思い返し、何度も何度も思い返しても、もう何も言葉が出てこなかった。野暮なのだ。一曲一曲に込められた浦島坂田船の想いと、その曲にある一つ一つの思い出が、全て蘇る。あの舞台、あのステージで追憶する。その追憶を前にして、言葉というのはあまりにも拙い表現手段ではないかと思う。けれど、ただ一言、この言葉に全てを尽くすとするならば、あれは私が見たかった、景色そのものだった。過去一、泣いた。

特に4人のMCは本当に凄まじかった。

いつもそつなく、なんでもこなしていそうなセンラさんから、浦島坂田船を辞めようと思っていたなんて言葉が出てくるとは思わなかった。そしてそれを「気持ちはわからなくもない」と肯定しながらも「もっと一緒にやろう」と言って引き留めた3人と、それを聞いて留まろうと思ったセンラさんに、嗚呼だから私はこの4人が好きなんだと思えた。

坂田さんの、どうしようもないところ。ちょっと嫌になって呆れてしまいたくなることもあれど、それを認めている、この空間の人間達が私もどうしようもなく愛おしくて、胸がいっぱいになった。そうだよな、一曲一曲思い出でありながら、ライブでみんなと作り上げてきた思い出でもあったのだなと、そう感じ入ってしまった。

普段涙脆い志麻さんが、なんとか絞り出していた、言葉。crewの持っていないところは、浦島坂田船が。浦島坂田船が持っていないところは、crewが。本当にその通りだなと思うと同時に、こんな持ちつ持たれつの関係をcrewと浦島坂田船が築けている奇跡に、胸がいっぱいになった。最後、自慢のcrewです、と言ってくれた言葉に、全てが込められていた。

うらたさんのMCは、この今の私の状況には、刺さりすぎた。ボロボロで、死にかけて、前日まで何も出来なかった。でも、それは決して私だけじゃなくて。うらたさんも、生きている感じがしない時があって、そんな彼から発せられる、「産まれて来てくれてありがとう」の言葉は、あまりにも重く、あまりにも温かい言葉だった。これからも生きていよう、そう思った。

生きる、とはなんであろう。私は、これからどうやって生きていこう。ここ数ヶ月、ずっと問い続けた問いに、一つの答えが見えて来た、そんな日でもあった。

人生という旅、備忘録。まだまだ書きたいこともあり、船旅だけではなく多くの場所へ出向いた話など、まだまだ語りたい話は尽きない。だが、一つだけ確かなことを言おう。この船旅は、私に生きる意味を教えてくれた。それは、今までの道も、これからの道も、間違っていないのだと、いうこと。それは無条件で私を楽しませてくれる、浦島坂田船だからこそ指し示せる、コンパスなのであろう。

もうそろそろ夜が明ける。夜行バスのカーテンの隙間から、朝日がこぼれ落ちる。明けない夜はないだろう?そう燦然と輝く朝の光は、4人の海賊が背負う光と、よく似ていた。

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