見出し画像

今まで見た中で一番美しい花火 そしてお囃子だったのだ 【KOZUKA 513 shop paper vol16 2020/09】

**********
「祭」は俳句の世界では夏の季語
春や秋の祭はそれぞれ「春祭」「秋祭」のように
季節を書き記すことがきまりらしい
昔から夏は疫病が発生しやすく
それをもたらす元凶は怨霊だと信じられていた
それを鎮めたり祓ったりするために行ったのが夏祭の始まりだという
遠い昔の人々の災厄を鎮めたいという切実な願いや祈りが
今は実感としてわかる
皮肉なことにその災厄のために 夏祭が中止や規模縮小に追い込まれている
大山地区の祭礼も 例年ならば各地区の神輿が集結し
大山不動尊の急な石段を登る それは迫力のある盛大なものなのだ
 
8月8日土曜日 中止となった祭礼の代わりに
金束睦会主催の金束納涼花火が打ち上げられた
間近で上がる花火の迫力と美しさ
打ち上げ前後の笛・太鼓のお囃子の清々しさ
お囃子の拍子に合わせて太鼓や笛の様子をまねる子供たちの愛らしさ
本来の祭に比べれば質素なのだろうけれど
これまでに見たどの祭よりも 花火も人も美しかった
本祭が中止に追い込まれたことの無念
でもそれに負けていられるかという心意気
金束の花火は 災厄で疲弊した心に染み入るものだった
 
秋は収穫の祭だ
南房総では8月の終わりには稲穂が金色に色づき
刈られた稲が稲架にかけられている
稲株が整然と並ぶ田の風景は 田の1年の終わりではあるけれど
またつぎの始まりを待つ静けさ
10月の大山千枚田の収穫祭も今年は中止
ライトアップするだけになるけれど
今年も 今年だからこそ 心の底から収穫を祝いたいと思う
 
夜長を鳴き通す虫の声と美しい星空 季節はいつの間にか秋
**********

こんな世の中だけど、お囃子も次の世代に脈々と受け継がれていくのだと思う


生まれ育った街の夏祭りは、「港まつり」といわれる盛大なものだった。街の目抜き通りには数えきれないほどたくさんの屋台が軒を連ね、踊りや神輿のパレードが繰り広げられる。祭りのハイライトでは何百発もの花火が盛大に打ち上げられる。
今はもう過疎の街になってしまったけれど、もともとは江戸の昔から全国に知られるほどに栄えた大きな港町であり、粋で華々しい祭りが行われていたのだ。

祭りについてはもう一つ思い出がある。それは、父親の実家のある小さな農村地帯の集落の祭り。パレードや打ち上げ花火はないけれど、小さな神社の参道にほんの数軒の屋台が立ち、祭提灯が吊り下げられ、何とも言えない陰影を作りだす。
境内には奉納子供相撲のための土俵が整えられ、子供たちはこの日ばかりは本格的にまわしを身に着け、それぞれの思いを秘めて土俵下に待機する。
派手さはないけれど子供心に浮き立つような風景だった。
(無理やり相撲に出させられたのは本当に嫌だったけど…自分は町場のもやしっ子で、農村の屈強な子供たちとまともに戦えるわけがなかった。)


祭りが中止に追い込まれる、その痛ましさを、嫌というほど噛み締めた2020年だったのだ。今年、2023年8月、大山地区の祭礼は4年ぶりに執り行われた。山車を引く人、神輿を担ぐ人、それを先導する人、後について練り歩く人。晴れ晴れとし、誇らしく、喜びにあふれた人々の表情は、これまでにも、この先にもないのではないかと思えるほど、美しいものだった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?