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美しい男

※暴力、流血表現がちょっとだけあります。

 あの男を目にすると、大抵の人間は口がきけなくなる。何も喋らず、ただ、じぃっと、その映画俳優のように整った、顔面のパーツの配置や、足の長さや、鍛えられた体、立ち居振る舞いの優雅さ、滲み出る色気、聡明さ、非日常感、そんなものを観察して、この人間の内側について想像することしか。
 どうしたらこの男の感情を、自分が、僕が、揺さぶる事ができるか、どうしたら。僕のことをあの透き通った瞳に映して、ああ、いるな、くらいは思ってほしくて、一瞬でもあの美しい男の意識のうちに入りたくて、それだけ、ただ、たった、それだけ、でもそれすら成し得ず、死んでいった人間がどれほどいただろう。

 意識があることを、呼吸ができていることを、この世に生きていることを、こんなにも不幸だと思ったことはなかった。同時に、眼の前に広がる美しい行為を眺めていられるのがこの上ない喜びでもあった。
 真っ赤な血飛沫が飛ぶ。ひらりと花びらが舞う、桜色の花びら、窓から入ってきたのだろうか、窓ってどこの? それって本当に桜色をしているか? 花びらなのだろうか? 腫れて血に濡れ、ぐしゃぐしゃになったアニキの姿。拳を振りかざす美しい男の微笑み。音はもう聞こえない。色もない。体の感覚も。コンクリートの隙間から眩い光が差し込んでいる。ついに動かなくなったアニキ、動いているのは、額の、皮膚が裂けたところからだくだくと流れて床に溜まっていく血だまりだけ。それに光が反射して、きら、と光った。この光景だけは、きっといつまでも覚えている。それは予感だった。確信でもある。おれは、この人(・・・)から目をそらしてはならない。アニキか、男か。言うまでもなく、後者だ。


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