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5.草薙球場

草をぐブロンズ像のかんに英霊のまぼろし

1996.8.25 高校野球秋季静岡県大会
1996.8.27 横浜ベイスターズ対ヤクルト・スワローズ戦

 ナゴヤ球場観戦のあと夜を明かしたオールナイトの上映プログラムすべて終了し、室内灯がともった。館内にわかに明かるくなり、重いまぶたに光線がまぶしい。

—席を立って、早々にお引き取りください!

 無言の退席勧告にせかされるように、こわばったからだを背もたれから起こすと、頭陀ずだ袋抱えて館外に出た。すると名古屋駅界隈は夜の名残りと朝の気配とが交錯する薄明かりのなかに、ようやく生気ただよいはじめたところ。コートのポケットから携帯電話を引っ張りだしてディスプレイ見れば、時刻は『 6 : 58 』だった。
 とにかく顔を洗いたい。車もほとんど通らない駅前通りを渡って、日曜日の人影まばらな名古屋駅構内に身を運んで、照明ばかりがまぶしい閑散としたフロアにトイレをさがしあて、せまい通路に入ると、そこは都会に残されたささやかな路地とでもいうのか、社会から身をひそめる隠れ家に帰った安堵感があって、便意をもよおしたわけではなかったが、つい個室へと飛びこんだ。
 便座に尻をあずけて、しばし力んでみる。しかし、みじろぎもままならなかったオールナイトで消化器官もこわばってしまったか、ベンが腸壁を伝ってくるきざしもない。うん、うん、と気ばる目の前の扉には、お約束の落書きがあって、屈託なくご開脚の奥に泰然たる陰部、マンガ的とはいえ克明に描かれていて、はけ口のない性欲をもてあましているガキが衝動的に走り描きしたとはとてもおもえない出来栄え。目のやり場ほかになく、局部を凝視しているうち、私の脳内に邪念の精子が宿ったか、ぽんっ、と赤子ならぬ金言が宿った。

『性欲とは、宿便なり』

 どこで読んだか聞き知ったか、たぶん断食のノウハウ本だったろう、いつか仕入れた知識がふいによみがえった。
 これまでの人生で何度か断食をしていて、いくらか整腸はなったはずだが、性欲から解放されたおぼえなく、煩悩は墓場まで持ち越しだろう。
 頭頂しびれるほど踏ん張ったものの、映画『男はつらいよ』寅さんではないが「〜奮闘努力の甲斐もなく〜」、ついに便の一片もひりだすことはできなかった。
 ジーンズたくしあげて立ちあがり社会の窓をしめると、落書きとお別れして個室をあとにした。そして洗面所にまわると、さきほどは無人だった鏡の前に先客があった。
 洗面台に紙の手提げ袋があずけてあって、手ぬぐいに雑誌、飲みかけのペットボトルがのぞいているのをみれば、たぶんホームレスだろう、おじさん、べつにこちらを気にとめる様子もなく、緩慢かんまんに歯ブラシを左右に運ぶ。
 かれの反対の隅のカウンターに頭陀袋あずけて、なかからビニール製の、息子が小学低学年まで使っていたエアプレーンのイラスト入り洗面セットひっぱり出し、おじさんと並んで歯ブラシ使う。ふたりきりの洗面台で、歯ブラシがすれる音だけの気まずい沈黙があった。視野の片隅に盗み見る男の顔はおぼろで、影に精気はない。
 同じ無宿者同志、「おはようございます!」と、気さくに声をかけるべきかとも思ったが、そんな干渉を喜ぶ雰囲気はさらさらなさそうだ。いい気になって野球場まわっているハンパ者から、おじさん気安く声をかけてほしくはないだろう。
 声はかけなかったが意識は無意識に男にからめとられ、鏡の前に並んで立つふたつの影が私の中でしだいに寄りそうようになって重なり、いつしか隣の男の姿が、何年かさきの、いつかの自分に見えてきた。
 ふっ、とわれにかえって歯磨き中だったこと思い出し、口腔こうくうにたまった唾を吐きだした。手のひらで受けた水道水でうがいをすると、せっかちに洗顔をすませ、そそくさと洗面所をあとにした。
 駅の構内に出ると、それぞれが退っ引きならない用事をぶらさげて歩いているのだろう、右に左に行き交うひとの流れができていて、それを無意識に追ううち、そのなかにトラの姿をみとめた。
「よーく、眠れましたかね」
 洗面セットを頭陀袋にしまいながら、朝の挨拶がわりに嫌みを一発かます。するとトラは、おとぼけで返した。
「おかげさまで」
 そういうがはやいか、「ふぁーあっ〜」と、トラは駅前のビルも呑みこまんばかりの大あくび。そして皮のリュックを肩にかつぎなおしてロッカーに向かった。
「7時22分ですよ。そろそろ行きましょう」
 コインロッカーから荷物引っ張りだした同行二人は、売店で朝食の『みそカツ幕の内弁当』とお茶を調達すると、改札で青春18きっぷに、あらたに本日分のスタンプ押してもらい豊橋行各駅停車にとび乗った。
 目的地は草薙球場。ここで翌々日に行われるヤクルト・スワローズと横浜ベイスターズのチケットを仕入れてから東上し、東京駅近くの汐見というところであるという『上々颱風祭り』のライブにかけつける予定だ。

 車両は普通列車だから普通であってなんの不思議もないが、なんの色気もない対面シートの通勤列車で弁当広げるのも気おくれし、睡眠不足おぎなうように、ただただ居眠り。
 終着の豊橋に着いたのは8時35分。すぐに40分発の浜松行に接続していたが、先を急ぐ旅でもなし、ひとつ遅らせてホームのベンチで弁当を食べることにした。
 膝にのせて弁当を開くと、中味は商品名そのままの味噌タレのトンカツ。さすがにオールナイト上映『男はつらいよ』3本立てで夜を明かした胃袋もてあまし、箸をなめながら顔をあげると、ちょうど浜松行が動きはじめたところだった。オレンジとブラック、ツートンカラーの車両が移動する窓越しに車内追うと、それはボックス席のある〝特等列車〟。ほとんど客のいないまま、ゆっくりとプラットホームを離れていった。
「オー、マイガッ!(うそだろ!)」私は肚のなかでそう叫んだ。
 なにも考えずになりゆきであの列車に乗っていれば、心地いい鉄路のリズムを箸休めにみそカツ幕の内弁当をこころゆくまで味わえたではないか。
「おい、御召し列車がいってしまうぜ」私はトラに本日二撃目の嫌みをかました。
「そんなこといったって、ぼくは知りませんよ。車両の形状まで把握してるわけじゃないんですから。文句いうなら、あなたの都合に合わせてくれないジェーアールにいってくださいよ」
 口をとがらせてそういうと、トラは膝にのせた弁当にかぶさるように、みそカツに喰らいついた。
 トラを責めても、あとの祭り。たしかにあとで上々台風祭りに行くことにはなっているが、きょうは朝からボタンをかけちがえているようで、嫌な予感が走る。
 くりごとだが、その車両は興津行だった。それに乗ってさえいれば、乗り換えなしで目的地の草薙に着いていたのだった。
 つぎの便、8時54分の美濃赤坂発浜松行で豊橋を発ち、いくつか駅を過ぎると浜名湖のうなぎ養殖場の遠望。しぶきをあげるちいさな水車が、ぽつんぽつんと点在するのをながめているうち、30分あまりの所要時間で終着の浜松に到着した。
 ここで2分待ち合わせの9時30分発熱海行に接続。この便で、ようやく草薙までたどり着ける、とトラがいう。

澤村榮治の伝説が生まれた地に

当日の試合の模様を伝えるプレート

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