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6.スイートホーム

弟が妹が欲しいか?という質問の答えはNOでしたが、10歳の時、弟が生まれました。

私の意向云々の話はここでは大したことではないでしょう。
それよりも、ケンカばかりで不仲な両親が新たな子を授かった、ということに注目してテーマを選びましょう。

それは、『マイホーム購入』です。

1980年代の住宅事情

以前お話ししたように、わが家は竹藪の中のスズメのお宿でした。これはお父さんの会社の社宅でした。社宅とは言っても周囲に同じ会社の人が固まってくらしているようなタイプの社宅ではなく、住む場所を決めて、その家賃を負担するというタイプでした。

今その仕組みを考えてみると、なかなか良い待遇ですよね。私ならマイホームなんか要らないと思ったかもしれません。

でも当時は、マイホーム購入というのはサラリーマンの夢。というよりも、一種の強迫観念でした。つまり、持ち家に住まなければまともな家庭とは言えないような空気があったのです。景気も右肩上がりで、バブル崩壊とその後の長い長い不景気など、想像もつかなかったような時代です。

人口爆発と都市集中、そして核家族化。既存の住宅地では対応できない凄まじい需要が生まれました。

ニュータウン

多くの山が切り拓かれ、ニュータウンとして開発されました。都心まで1時間以上かかる郊外の分譲住宅の抽選でも高倍率の大人気。

https://www.mlit.go.jp/totikensangyo/totikensangyo_tk2_000065.html

国土交通省の『宅地供給・ニュータウン』を見て見ると、施行面積300ha以上のニュータウンを「大規模ニュータウン」と定義しています。

この大規模ニュータウン、全国で約70か所もあるのだそうです。
計画総戸数90万件。
計画総人口368万人。

国土交通省のExcelの一覧資料をダウンロードし、事業開始年度と終了年度を集計すると、開発中だった期間が見えてきました。

大規模ニュータウンの事業の推移

これを見ると、大規模ニュータウンのピークは1980年代だった、と言えるでしょう。

そして、私たち一家が関東のとあるニュータウンに引っ越したのも、この時期だったのです。

ちなみに上記の表では、2020年代(つまり今)開発中のままになっている大規模ニュータウンが1件あります。これは和歌山県橋本市にある林間田園都市です。事業主体も”個人”となっていて、異質な感じがします。(ホームページを見ると普通の民間企業に見えますけどね)

新天地

話を元に戻しましょう。

ニュータウンは今まで住んでいた町とはまるで違っていました。

今まで住んでいた町は元来甲州街道の宿場町であり、長い歴史の中で細かく土地が分かれていました。

いっぽうニュータウンはもともと丘陵地帯の森林であり、野生動物が多く住み、開発者は土地の買い付けのためにリュックサックを背負い登山靴で地主の炭焼き小屋まで出向いて交渉をした、という土地柄です。

ふんだんにある土地には、意匠をこらした広い公園がいくつもいくつもありました。いろとりどりの花壇、そっと隠れて話ができる東屋、ときに迷路のように入り組んだ小道、ひんやりとした石造りのベンチ、桜並木、芝生に覆われた見晴らしの良い小山、テニスコート、サッカー場、屋外劇場。
まるで、公園の中に家が建ったような、そんなのどかで美しい町だったのです。

両親がニュータウンで買い求めた住居はいわゆる団地。とはいえデザインに工夫が凝らされ始めた時期でもあり、なかなかおしゃれなマンションタイプの部屋でした。間取りは3LDK+S。2部屋が和室で、1部屋が洋室。ダイニングとリビングは続いており、合わせて20畳ほどの広さでした。
一階で庭がついておりました。
私が一日に何時間もピアノを練習するので、ピアノは音が下に響きますから、一階がよかろうということになったのです。

完全に、3人家族用の家でした。

引っ越しが4月。住宅購入が決まったのはその半年以上前のことです。
弟が生まれたのは引っ越した後の9月です。

この家を購入する際の計画には、弟は、いませんでした。

両親はこの緑豊かな新しい町で、顔にアザのある娘に教育を施し、将来に憂いがないようしっかりと育てるつもりでした。

私が今振り返っても、理想的な話のように思うのです。

なぜ、そうならなかったのか?
なぜ、両親の思い描いたようにことが進まなかったのか?
それはまたこのつづきで、お話しすることになります。

弟の誕生


さて、弟が生まれることは、計画外ではありましたが、もちろん家族の良いニュースとして歓迎されました。

マイホームブームで友人知人がどんどん家を買っていく中、銀行の融資や住宅の抽選などなかなか思うように行かなかったことがやっと実ったのですから、夫婦の気持ちも盛り上がり、妊娠に至ったのでしょう。

妊娠中の母がずいぶんヒステリックになったことや、久しぶりの赤ちゃんを迎える準備で両親がバタバタしていたことも懐かしく思い出されます。

弟が生まれた朝、私は父と一緒に一駅離れた大学病院へ向かいました。

駅に向かう道は、造成中の土地の間を縫うように敷かれていました。
ちょっとやっつけで載せただけ、といったような申し訳程度のアスファルトは、遮るもののない日差しにさらされると、タールの匂いをたぎらせていました。
そして、木の電柱。
のちに巨大な街路樹と美しいタイル張りのプロムナードによって上書きされるこの風景ですが、今も、宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』を読むときには必ず、私の記憶の奥深くから展開して頭をよぎっていくのです。

イベントを開催したり、市民の散歩道となったりと、市の中心となるべく設計された公園は、このときはまだ丸裸のくぼんだ広大な土地でした。粘土質の赤褐色の土は水をたたえて、調整池とよばれていました。もとは森林だった場所ですが、水辺の草が生い茂り鳥が飛来して、新しい生態系を構築しつつありました。

赤とんぼが、たくさん、水面近くを飛んでいました。

秋でしたから。

スイートホーム。

この土地で私は苦しみ、家族は壊れました。

そんな結末は、まだ知る由もなかったのです。

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