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3.死んだふりごっこ

奇妙な遊び

大きくなるにつれ、「うちって変だったのでは?」と思う事って、ありますよね。
子どもの頃は自分の家が全てであり常識なので、その奇異さに全く気が付かないのです。
うちの場合の変なことは、お母さんの奇妙な遊び。

死んだふりごっこ。

それは何の予告もなく、気まぐれにはじまります。
お母さんと私が家で二人っきりのときに、お母さんが床に横たわり、ピクリとも動かないのです。
幼い私は心配し、おかあさんおかあさんと呼びますが、お母さんは返事をしません。
体を揺さぶったり、まぶたを指でこじ開けたりするのですが、お母さんの柔らかいからだは絶対に目覚めません。
お母さんは、息をしていないようです。
「お母さん、うわーーーん!」

私が泣くまで、この遊びは続きます。
執拗に。
私が泣くと、お母さんは目を開いて笑い、私を抱きしめます。

そして、

「えぬちゃん、泣いてはいけないよ。お母さんが死んでも、元気にがんばって生きていかなければいけないよ」

と、言うのでした。

これって、子どもにやって良いことなのかな?
と疑問を持つようになったのは、成長して、ずいぶん経ってからのことでした。

祖父の四度の結婚

あれは、なんだったんだろう…。
私はずいぶん考えました。
そしていろいろなパズルをつなぎ合わせてみると、お母さんの生い立ちというピースがぱちりとはまったのです。

ですから、お母さんの生い立ちの話をしましょう。

それにはまず祖父、つまりお母さんの父親の結婚の話から始めなければなりません。

祖父は、九州の農家の大黒柱でした。肉牛を飼い、田畑を耕し、仕事は盛んにやっていましたが、不思議なくらい妻に運がありませんでした。
彼の妻は、一番目、二番目、三番目と、皆早死にしたのです。

こう書くと、どう考えても怪しげですよね。
青髭めいた、昭和のミステリー。

最終的に長生きをして添い遂げた四番目の妻は、姪っ子の嫁入りについてきた人だったそうです。
つまり、長男の嫁の叔母が、一緒に嫁入りしてきたのです。
バーターとして。
田舎では、良くあることだ、と聞きました。他の家に嫁ぐ女たちが苦労をしないように、血縁者を付けるのだそうです。

この四番目の後添え以外、どの妻も子供を残しました。
私のお母さんは末っ子、三番目の妻の子でした。
母親の違う年の離れた兄一人と姉二人に可愛がられ、
山道で蛇と戦ったり、川でウナギを釣り、捌いて焼いておやつにしたりしながらすくすくと育ちました。
彼女の人生に暗雲が垂れ込めたのは、十にならない年ごろです。
母親を亡くしたのです。

お母さんの母親、私の祖母は、もとは県立病院の総看護師長だったそうです。
第二次世界大戦も終わりという頃にキャリアの頂点にあった彼女は突然、結婚することのできない人の子どもを産みました。
誰の子だったのかは聞いていません。
ありがちな線で行けば既婚の医者と不倫していたとかでしょうか。
まあこの昔ばなしに登場する多くの人が鬼籍に入った今となっては、全くわからないのです。

今ならそんなことはありませんが、昔のことですから、私生児を産んだ祖母は大病院で仕事を続けられなくなりました。
彼女は戦後に満州から引き揚げてきた姉夫婦にその子を託しました。子どもに恵まれなかった姉夫婦はよろこび、その子を戦後のどさくさにまぎれて実子として届け出、何不自由なく育てました。
そして祖母は都会を離れ、田舎の診療所で働きはじめました。
そこで祖父と出会い、結婚し、私のお母さんが生まれたのです。
二人の妻に先立たれた農家の主と、私生児を産んでキャリアを失った看護師。なかなかお似合いの、納得いく縁談です。

祖父は道沿いに『売店』と呼ばれる小さな店を持っていて、祖母はそこで店番をしたそうです。
店では農家に必要な物資も売っており、農薬もばんばん売れたとか。それで夜空を焦がしていたホタルがぱったりいなくなって、しばらく戻って来なかった、と昔語りにお母さんから聞きました。

今では地元の人たちの努力により、またホタルが戻っているそうですよ。
まあ何もかも、昔の話なんです。

腎臓病と母子の別れ

さて、祖母はバリキャリの看護師でしたが、
自分の健康には無頓着だったと見え、
腎臓病を患っていました。

腎臓が悪ければ当然塩分控えめにしなければなりませんが、
継子である娘、私のお母さんがのちに夫とケンカをするたびに駆け込んだ名古屋の伯母、に命じて入院先の病院にしょっぱいものを差し入れさせていたそうですから、治る気あったのか疑います。看護師だったというのに。

祖母は若くして死にました。
三十代の終わりか、四十になったばかりか。

今わの際にはお母さんと、姉夫婦の実子として育てられているお母さんの異父姉(当時は従妹という建前だった)が呼ばれ、悲しい別れの話があったそうです。

『さやちゃん、お母さんが死んでも、決して泣いてはいけないよ。
元気にがんばって生きないといけないよ。』

「…って、私のお母さんは言ったのよ。」
と、お母さんは言いました。
「でもね、私は、泣いたの。
 悲しくて悲しくて、
 えーんえーんって
 泣いたのよ。」

その話をした時のお母さんの美しさは、生涯忘れることはないでしょう。

お母さんは自分のこころを家族と共有することを拒み続けた人でした。
でもこの時は、私が幼かったために、自分の体の一部として油断し、こころひらいて悲しい記憶を分け与えたのです。

その時のお母さんのやわらかな肌とやさしい唇、しっとりした黒い目は、雨の降ったあと白玉のような水滴が揺れる芍薬の花に、橙、緑と色を変えながら重たくなる夏ミカンの実に、春の風に揺れ一枚ずつはがれて散る重たいモクレンの花びらに、永遠に閉じ込められていて、私たちの心がすっかり遠くなって二度と戻れなくなってしまった今も、そこに息づいているのです。

みなしごブーム

祖母はあと5年生きるべきでした。娘をしっかりと教育し、自分のようにキャリアを構築できるよう、ちゃんと高校に進学させるべきだった。キャリアウーマンだった彼女がなぜ、その道筋をつけることに執着しなかったのか、私は不思議に思います。私だったら、夫とよく話し合い、どういった教育を受けさせるのか計画し、約束させたと思います。家にはお金はあったのだから。
もしかしたら祖母は、苦労したキャリアが道ならぬ恋によって簡単に閉ざされてしまったことに、何か虚しさを感じていたのでしょうか。

後添えの目が行き届かずほったらかしにされた私のお母さんは中卒で近くの都会に出て大企業で働き始め、二十歳になるや否やあっという間に結婚しました。たぶん、お互いに相性の悪い相手と。

『お母さんが死んでも、泣いたりしてはいけないよ。
 元気に頑張って生きなければいけないよ。』

祖母の唯一残したもの、何の役にも立たないこの陳腐な言葉は私のお母さんの心の深くに刻まれ、幼かった私の心を切り刻みました。その刃の欠片は、私の心臓のすぐ隣に刺さったまま、鼓動に震えています。

思えば、私の育った70年代の世の中はちょうど、みなしごブームでした。
アルプスの少女ハイジ、みなしごハッチ、キャンディ・キャンディ……
見るアニメ見るアニメがみな、お母さんが死んでも元気にがんばって生きている子どもたちを主人公にしたものでした。
みなしごのバリエーションとして、お母さんと生き別れ、という設定もありました。
母を訪ねて三千里、星の子チョビン、一休さん……
なんであの高度成長期という時代にあそこまでみなしご(または親元を離れて生きる子ども)がもてはやされたのでしょう。
みなしごが大量発生したのは戦時中、戦後まもなくといった時期だったでしょう。私の両親も戦後の生まれで、もはやそんな時代は過ぎ去っていました。もしかしたら、豊かになりゆく時代の中で、私たちの親やその上の世代が次世代に残す物語の中に、もう実在しないみなしごというテーマがあったのは必然だったのかもしれません。

心臓のとなり

そして私はいつしか、こう考えるようになったのです。

お母さんはそのうち、私を一人残して、死ぬ。

これが私の心臓の脇に刺さっている欠片なのです。

あれから40年以上経ちました。
私のお母さんは死んだふりごっこのことを全く覚えていません。まだボケてはいないようなのですが。
一度なにげなく話題に載せてみましたが、
「あんた何いってんの?私がそんなことするわけがないじゃないの、ばかじゃないの」
と半ば本気で怒り、一顧だにせず、即座に撥ねつけました。

私のお母さんは一生使っても直せないくらい、
壊れてしまっているのです。


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