文学・社会学で学ぶことは社会で役に立ちません 査読編
学会誌編集の経験があり、ウィキペディアの項目を持つ著名な、東海大学文化社会学部非常勤講師の岡和田晃先生(修士(文学))が
と妥当であると評価する査読は次のポストに画像として添付されています。
この査読における次の3点から、文学、社会学を学んでも社会では役に立たないことがわかります。
査読による指摘の間違いがネットで簡単にわかる
証拠の不備を理由に投稿論文を否定する一方、査読者は証拠を示さない
査読では初等的な論理すら扱えていない
一定以上の学識を持つはずの査読者による査読に、間違いも無根拠な相手(投稿論文)の否定も含まれています。こういった人が学識者として扱われる分野で学んだ学生に、間違いのない、根拠を示した文章を書けるようになることを期待してはいけません。
この査読のような、間違いをもとに相手を批判し、自分は証拠を示さない文章を書けるようになりたいと考える高校生は、文学部、社会学部を目指すと良いでしょう。
ネットでわかる、査読の指摘の間違い
査読はジェンダー論としての問題点について、次のように書いています。(強調は引用者による)
つまり、トランスの人々などによる「自分が女/男と思えば、その人は女/男なのだ」という主張の証拠がないのだから、社会的・学術的意義がない、と査読者は主張しています。
まず、査読者は投稿論文の説明「身体基準を使わずに性別の信念を保有すること」を勝手に別の表現に置き換えているのは、査読者が行なった「投稿論文の主張をすり替える」という大きな問題です。あえて、表現に違いがあっても許容するように査読者側に大きく譲歩したとしても、ネットが使えるなら、ないはずの証拠は容易に見つかります。3つ示しましょう。
1つは、孫引きなので信頼性が低い証拠です。以下の記述が実際の書籍に含まれなければ指摘してください。トランス当事者である甲南大学非常勤講師の佐倉智美先生の著書「女が少年だったころ - ある性同一性障害者の少年時代」に対するレビューです。
もう1つは、ジェンダー論の論者へのインタビューである、武庫川女子大学教育研究所の安東由則教授の研究レポート(安東由則 (2023) 三成美保教授インタビューに関する解説と補足―女子大学へのトランス女性の受け入れをめぐって―. 武庫川女子大学教育研究所 研究レポート 53号(PDF))の第2章2節「入試におけるトランスジェンダー女性の手続き」より引用します。
タイトルにある三成美保教授は、日本ジェンダー学会副理事長、追手門学院大学法学部教授を指す。この引用で参照されている(末光・戸野塚他 2022(PDF), p.5)の該当部分は次の通り。
ジェンダー論の論者である日本ジェンダー学会副理事長が、「女性だと申告した受験生には診断書も何も求めないのが望ましい」と明言しているように、性別判断に身体基準を使わない、受験生が女性と言えば女性であるのが本来だというのが、ジェンダー論の論者の主張だと、この具体例は示しています。
最後は、ジェンダー論の論者よりも現実に即した、国語辞書(三省堂国語辞典第八版)からの引用です。
身体基準を使わずに、感じている性別がその人の性別になるという定義の証拠です。NHKの取材(時代で変わる国語辞典 かつて「女」は「優しく産み育てる人」今は?)に対して、三省堂国語辞典編纂者は次のように説明しています。
身体基準を使わずとも「女」に該当するのが、現在の世の中の動きである、とことばの専門家は理解し、辞書の項目を書いたことがわかります。このことから、世の中の動きを踏まえれば、「自分が女/男と思えば、その人は女/男」が社会に浸透しているという証拠があり、ことばの観点からも査読者の否定する社会的・学術的意義は現実に存在する、つまり査読は誤りであることがわかります。
これらのように事実に反する主張を理由に相手を否定することは、文学、社会学では許されても、一般社会では受け入れられません。
証拠を示さない査読者
事実を誤認した査読はこの後、次のように続きます。
査読者は思う、考える、可能性も大いにある、という理由で、査読した論文は捏造に近く、有害性をはらむので、掲載は妥当ではないと判断しています。根拠のない、客観性を欠いた、査読者の主観だけ、しかも学術的意義に関して事実誤認をしたままです。これは、直前で査読論文著者に証拠を示すよう要求したことと、正反対です。
初等的な論理すら扱えない査読者
さらに問題なのは、査読者が「∀(すべての)」と「∃(存在する)」という(大学1年生レベルの)初等的な論理学の基本すら理解できていないことです。「投稿論文のAのようではなく、査読者の考えているようなBの可能性がある」と査読者が主張しても、それはBが存在するだけであり、(証拠のない、査読者の個人的な考えのレベルですら)すべてがBだとは示せていません。Bが全体の例えば2割(または7割)を占めても、Aもまた全体の8割(または3割)存在することに矛盾はありません。つまり、査読者はAが少数であることを想定し、それを理由に学術的意義を否定しています。性的少数者を対象とするジェンダー学の自己否定をこの査読はしたいのでしょう。
編集委員の問題点
これまで示したように、この査読は事実誤認による査読論文の否定的評価、証拠を示さない主観による査読論文却下の判断、という2つのわかりやすい問題点を含んでいます。これに対して、編集委員は事実確認もせず、査読者の主観による判断を受け入れました。事実誤認と主観による判断で論文の掲載。却下が決まるのが、文学、社会学の学術誌であるという、文学、社会学の学術的水準を示す具体例です。
学術における「きわめてアンフェア」とは?
岡和田先生の考えとは正反対に、第三者がこの査読の内容を検証することが可能であることをここまでで示しました。今回取られた手段が正しいとは決して思いませんが、検証できる部分があることは事実です。これを否定する岡和田先生は、あらゆる内部告発や(オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」を例とする)リークも断固否定されるのでしょう。
まとめ
学会誌編集の経験を持つ、東海大学文化社会学部非常勤講師の岡和田晃先生(修士(文学))が適切だと評価した査読が、一般社会で通用するかという観点からみて、明確な問題点を含むことを指摘しました。
この査読の文章を読めばわかるように、大学で学ぶ際、提出したレポートや卒業論文が、事実に反する理由や、客観的根拠のない採点者の主観で不可、再提出にされることを望むのであれば、文学部、社会学部に進学すると良いでしょう。