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SNSに小屋の写真を流すたくらみとは

こんにちは。
こちらは畑や田んぼ、漁港の片隅に立っている小屋を写真に撮ったり、それについて文章を書いているページです。
すぐに何かのお役に立つような有益なことは書いてありませんが、よろしければしばしお立ち寄りください。

先日、Fm yokohamaの番組「FUTURESCAPE」に呼んでいただき、小屋の話をする機会をいただきました。小屋の写真を撮り始めたのが2017年6月、noteに初めて記事を書いたのが2019年11月。こんな地味なものを写真に撮って文章書いて、一体誰が見てくれるんだよと思いながらも、続けているとやっぱり誰かが見て読んでくれていることが分かり、嬉しくなります。
目を通してくださるおひとりおひとりに感謝を伝えたくて挨拶にまわりたいぐらいと言ったら、気持ち悪いと嫌われて逆効果なので止めておきますが、でも本当にありがとうございます。noteもプラットフォームを提供してくれて、いつもありがとう。

さて、「FUTURESCAPE」は、番組ディレクターさんからいただいたメールによると、「Fm yokohamaで30年つづいている最長老番組で、FMらしからぬ脱力系トークで、土曜朝9~11時に生放送しています」とのこと。パーソナリティーのお二人は柳井麻希さんと、あの小山薫堂さん。人物名のアタマに「あの」を付けても違和感のない人はごく一握りですが、薫堂さんは間違いなくその一人です。カメラのライカをたしなみ、しかもそれで撮った写真がとても上手い! そんな方の前で一体どのような話をすればいいだろうか?付け焼き刃でもいいからとにかく事前学習ということで、お話をいただいてからラジコのタイムフリーで番組コーナーを1カ月ほど聴きました。そうしたら、ディレクターさんの言うとおり、本当に脱力系。固くならなくてもいいのだなと、ちょっとホッとしながら臨みました。

番組内で薫堂さんから「隠れ家的な小屋を持ちたいと思わないのですか?」と尋ねられました。
冒頭からちょっと話が逸れてしまいますが、才能があって社会的に成功している男性は、大体隠れ家を欲しがります。 位置付けとしては書斎や趣味の部屋の延長線上にあるのでしょうが、では男性が家から出て、隠れ家で一体何をしたいんだ???と考えると、私も気持ちだけは分かるので(でも欲しいとは思わない)思わずクスッと笑ってしまいます。もし読者の中でパートナーや恋人の男性が「隠れ家が欲しい」と言い出したら、「この人は仕事が上向いているんだな」と思ってください(多分)。

さて話を元に戻します。私が撮っているのは農機具や漁具をしまっている物置小屋や果物の保存庫、バス停の待合所といった、人間の仕事を補助している小屋ばかりです。実は薫堂さんがおっしゃるような隠れ家的、秘密基地的な住居目的の小屋は撮影対象からあえて外しています。というのも、住宅としての小屋は必然的にデザインや装飾、快適さという要素が入ってきます。そうすると所有者と設計者のセンスと予算によって、どうしても優劣や好き嫌いが出てくるのです。私が撮っているのは、所有者すらも意図せず、時間の経過とともに今の形になった、あるがままの小屋たちです。

ほんの30分という限られた短い時間の中、最後に薫堂さんは「建築家のたくらみに満ちた、計算した」建築について言及してきました。「たくらみ」とは、とても魅力的な言葉です。
メディア業界の片隅でとはいえ、20年ほど写真の仕事を続けている身です。なので幸運にも、一流と呼ばれる建築家やデザイナー、料理人が日々研鑽し、「たくらみに満ちた」ものづくりをしている一端を垣間見てきました。そして多少なりとも「たくらみ」という言葉の意味を理解しているつもりでいます。建築でいえば図面上の1本の線にも、その場所に引かれた理由が必ずあります。それがあることで、誰もが見惚れるような空間にもなることもあれば、つまらないものに成り下がってしまうこともあります。一本一本の線の積み重ねで建築は完成し、時には施主ばかりでなく世界中から賞賛され、時には業界での評判を下げることにもなる。そんな抜き差しならない緊張感を孕んだ世界で、建築家は仕事をしています。
薫堂さんは若い頃からそうした中に身を置き、今も第一線で活躍し続けている超一流の方です。たとえ小さい建物であっても建築家が建てるような「たくらみに満ちた、計算」された隠れ家的小屋に関心が向くのは自然なことです。

ここで薫堂さんの問いかけに応えて話をさせていただくのなら、隠れ家的な小屋はもちろん興味があります。梁と柱の交わる一点にすら美を感じる、建築家と職人が神経を集中させて作り上げた建築の内外観や細部に、カメラマンとして興味を持たないわけがありません。ただ、それを写真に撮ってSNSに投稿したいかというと、そうとは言えません。それらの写真は建築雑誌やライフスタイル誌の紙面やウェブサイトで見て楽しむものだと考えるからです。どちらかというと、それらはお金をいただいて仕事で撮影する写真です。それでもあえて私が隠れ家の小屋を写真に撮り、SNSに投稿したとして、ではいったいどれほどの人が見てくれるでしょうか。
建築分野に限らない話ですが、ポートレートでもファッションでも、料理でも、有名無名を問わずたくさんのカメラマンが活躍し、SNSに自身が撮った写真を投稿しています。そこに写真を副業とする人たちや純粋に写真の好きなアマチュアカメラマンが撮った玄人裸足の写真も入り混じってきます。多くの人が関心を寄せる人気のフィールドに私が参入し写真を投稿しても、あっという忘れられ、タイムラインの彼方に流れていくだけです。

私は自分のインスタグラムにどんな写真を投稿していこうかと考えたとき、3つのことを決めました。

一つ目は、自分が本当に好きだと思うものだけを投稿する。
二つ目は、仕事で撮影した写真は載せない(出版や展示、メディア出演の報告・告知は除く)。
三つ目は、既に価値基準が確立している分野・被写体は撮影対象から除く。

以上です。
どんな写真を投稿したら自分だけの世界観が構築できて、それを分かりやすく伝えられるかを考えると、一つ目と二つ目が導き出されます。
難しいのは三つ目です。引き続き建築を例にとると、この分野では既に有名な建築家がたくさんいて、有名な建築作品も数多くあります。そして、それを専門に撮影する現役の有名写真家・カメラマンもたくさんいます。先ほども書いた通り、その中で私が写真を投稿しても、ただ埋没していくだけです。たまたま私が誰もが知る有名な建築家と建築作品を撮り、SNSに投稿し注目を集めたとしても、その建築家というブランドに依拠して自分を大きく見せようとしているのではないか?というもう一つの問題にもぶつかります。
フリーカメラマンという職業を選んだ以上は、確立した価値基準の中で値踏みされ、優劣や順位争い、椅子取りゲームの輪に加わるのは避けて通れません。
しかし自分の世界観を構築したいインスタグラムアカウントで、値踏みされる写真を投稿したところで、果たしてどうでしょうか? 私は意志が弱いので、間違いなくフォロワー数や「いいね」の数に振り回されることになります。既に価値基準が確立している分野・被写体の写真を載せるということは、数字という物差しにカメラマンとしての自分の価値を委ねることになってしまうのです。

では、どうしたらいいのか?
自分が本当に好きで、ずっと撮り続けていけそうなものはなんだろう?と悩んでいるいるときに、私は秋田県三種町のじゅんさい畑の脇で小屋に出会いました。初めから、これだけきちんと理論立てて撮影をスタートさせたわけではありません。でも、2年ほど撮り続け、ZINE「日本の小屋」を作り、マニアフェスタに参加し、たくさんの人と会話を重ねるうちに、価値がないと思われているものの中にも、目を奪われるような魅力が隠されていると確信するに至りました。
人生の中でこれまで視線の片隅にしか存在してこなかった、錆びたり傾いたりしている小屋が、写真の中心に堂々とある違和感。それゆえに思わず見返して、何が写っているのだろう? ここにどんな価値があるのだろう?と、写真を見た人が自分の頭で考え、何かに気付き、楽しんでいる姿を私は何度も目撃しました。今も私自身、小屋を前にして、またパソコンのモニターで写真を見ながら、視野が広がり、脳みそがパカーンと割れるような気付きを得ています。そんなときは、視界から霧が晴れるような気持ちになります。
観賞者が能動的に眺めることで、その人だけが見出せる喜びが、これまで見向きもしなかった小屋の中に潜んでいるのです。

所有者にとって小屋とその中身はなくてはならない大事なものですが、それ以外の人にとっては正直なところあってもなくても困らない存在です。しかし、もしもこれが明日の朝一斉に世界から消えていたら、どうでしょう。あってもなくてもいいような存在かもしれないけど、失われたら寂しい。小屋は世界の余白的な存在だと思って、私は写真を撮っています。
そして、世界の余白は視界の片隅にあるので気が付かないだけで、小屋に限らず案外風景のどこにでも転がっています。

今や私たちの多くにとって、SNSは生活の中に溶け込み、なくてはならない存在になりました。それが世界を広げ、ぐっと身近にしてくれたことは間違いありません。でも、その一方で多大な時間がそこで消費され、老眼は加速し(泣)、他者と常に繋がっていることに息苦しさを感じるようになったこともまた事実です。

今日、ひょっとしたらあなたのSNSのタイムラインに、薫堂さんがいみじくも指摘した「必要から生まれた形」の小屋の写真が流れてくるかもしれません。その小屋は建築家が計算し人々が賞賛するようなたくらみとは無縁です。しかし、だからこそ気を許しホッとできるという面もあります。
「世界はもっとデコボコでもいいはずだ」そして「価値はもっと相対的」と私は密かに思っています。
なので、どこの価値基準にも当てはめにくい小屋の写真を、私はちょっとしたたくらみを持ってインスタグラムやTwitterのアカウントに流しているのです。


ふう、、、。今日書いたことはこれまで頭の中でぐるぐると考えていたことでしたが、ここまで言語化したことはありませんでした。ラジオの出演を終え、たかぶっていた気持ちが冷めていく中で、改めてきちんと言葉にしなければいけないなと感じ、noteに書き上げました。「FUTURESCAPE」番組ディレクターのTさんが「番組に出ませんか」と声をかけてくださらなかったら、この文章が書かれるのはもっと先になったと思いますし、中身は全然違った形になったと思います。Tさんには感謝申し上げます。
私は会話に臨機応変に対応する瞬発力がないので、なかなか準備してきた以上のことを話すことができません。ここに書いたことをパーソナリティのお二人、薫堂さんと柳井麻希さんにその場でお答えできなかったことが悔やまれます。後の祭りではありますが、薫堂さんと、そして番組を聴いてくださったリスナーさんにも伝わったら嬉しいです。

最後になりますが、文中で厚かましくも、小山薫堂さんを「薫堂さん」と書きました。「小山さん」と書くとなんかしっくりこないし、小山薫堂さんと書くとちょっと長くてくどい。そこで「薫堂さん」とさせていただきました。馴れ馴れしくて申し訳ありませんでした! 薫堂さんと関係者の皆さま、そして小山薫堂さんのファンの皆さま、気分を害したらごめんなさい。どうぞ苦笑いと共にお許しください。
(了)
2023.06.05

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