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たとえば、こんな転職理由

腕に出来た見慣れぬふくらみの感触を指で確かめる。

そのデコボコとした表面に触れながら、僕は不快指数の高いかゆみを感じていた。

「もう限界かもしれないな…」

そう呟いて、僕は転職サイトの登録画面を開いた。

◆◆◆

2021年、世間はまだコロナ禍の中にあったが、僕はその中でも充実した日々を送っていた。

職場で重要なポジションを任され、目標達成に向けて業務に邁進する毎日。

確かに忙しくはあったが、それほど大きなストレスを抱えてはいないと自分では思っていた(この年、僕の愛するプロ野球チームが最下位になったことをのぞけば)。

しかし、ある時から体にじんましんが出るようになる。歯痛やかゆみといった症状のダメージは、それだけを取ればたいしたことではない。しかし、わずかでも常に意識を、それらの症状に割かざるを得ない状態になるため、QOLを大幅に低下させる。

忙しいとはいえ、極端な長時間労働をしているわけではなかった。趣味である野球観戦やフットサル、そして愛猫の存在がストレス解消をサポートしてくれていた。ただ、それでも身体が危険信号をあげている。

現職に大きな不満があるわけでもないけれど体の内側からアラートが上がってきているのであれば、転職を検討してもよいかもしれない。そう考えて僕は転職活動を始めた。

転職活動の楽しみは「自分の市場価値」を確認すること

正直いって、開始当初はそれほど本気で転職を検討していたわけではなかった。僕は、これまでに4度の転職経験を持つジョブホッパーだが、前回の転職時にはかなり苦労した思い出があったからだ。今回は、年齢も高くなっているし、そう簡単にはいかないだろうと考えていた。

ただ一方、転職活動の経験自体は豊富なので、その楽しみ方も理解していた。

転職活動をする際の最も大きな楽しみは「自分の市場価値」を確認できることだ。自分の経歴やスキルを評価してくれる会社があるのか。自分により大きなプロジェクトを任せようとする会社はあるのか。その数は多いのか少ないのか。評価は現職より高いのか低いのか。

これらは転職活動を実際にしてみなければわからないことだ。もちろん、評価してくれる会社が少なく、あったとしても現職より低評価であれば、骨折り損ということになる。ただ、それでも自分の現時点のスキルを棚卸したうえで、客観的な市場価値を知ることは今後のキャリアを考える上で有益だろう。

そう考えた僕はエージェントから紹介を受けた複数の企業に書類を提出した。

◆◆◆

予想に反して、僕の転職活動はスムーズに進んだ。

短期間のうちに複数の企業からオファーをもらうことができ、中には4桁万円の年収を提示してくれるところもあった。おそらく、「ただのネットニュース編集者」だった前回から、SEO関連の知識や事業サイドの経験が付加されたことが評価されたのだろう。当然のことではあるが、あらゆる経験は無駄にならないのだなと思う。

こうした複数のオファーの中から、業務内容、待遇、社風などを勘案したうえで現職への転職を決めた。じんましんはいつの間にか治まり、僕は新しい環境に慣れることに専念できた。

じんましんの本当の理由

半年ほどが経過し、新たな職場にも慣れて来た夏頃、再び僕の腕にじんましんが現れた。

今回は、その理由がまったくわからない。労働時間はむしろ短いぐらいだし、出勤時間も自由だ。業務内容にも待遇にも不満はない。2022年はライオンズも比較的好調だったので、ストレスなんてあるわけがない。

うでに浮き出てきた発疹を搔きながら首をかしげていると、目の端を横切る黒い小さな点のようなものに気付いた。「まさか」と思いながら、近くのソファで寝ている愛猫にブラシをかけると、先程の点が櫛の歯に引っかかっている。

ノミだ。

完全室内飼いである我が家の猫にノミなどつくはずがない。そう思い込んでた。しかし、経路は不明だが現実に猫の身体にはノミが住み着いており、僕のうでにかみついていた。そもそもじんましんなどではなかったのである。

体にじんましんができたと思わなければ、僕は転職活動をしようなどと思わなかった。
当然だが、転職活動をしなければ転職先は決まらなかった。
そして、至極当たり前のことだが今の会社で僕が働く未来もなかった。

この小さな害虫は、思わぬ形で僕のキャリアを、人生を変えてしまった。

ノミが原因で転職しました。

これほど物理的な意味で小さく、取るにたらない転職理由があるだろうか。我がことながら、あまりにもバカバカしくて笑いがこみあげてきた。ただ、そんなことを言っても仕方ない。僕は「ニャッ」に濁点を付けたような短い悲鳴をあげる猫をキャリーバックに入れると動物病院へと連れて行った。

振り返ってみると、まったくする必要のない転職をしたようにも思うが、後悔はしていない。現時点の僕は心の底から「今の仕事に出会えてよかった」と思っている。

すべての職業選択に、難病を直してくれた名医に憧れて医者を目指したりするような美しいストーリーがあるわけではない。猫についたノミがきっかけで行われる職業選択もあるのだ。月並みだが、人生なんて、「そんなもの」だと思う。

ふと横の椅子に目を向けると、僕のキャリアを大きく変えた犯人の共犯者である愛猫が横たわっている。つついてみると、「そんな話は知ったことか」とばかりに毛づくろいを始めた。

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