桜しべ降る日に、空へと放つ夢をみた
桜しべが足元に降り積もる春夜。母娘の夢が、ひとつ空へと消えていった。
娘がバレエを習い始めてから六年目を迎えたある日のこと。娘はバレリーナとして、はじめて発表会の舞台に立つ機会を得た。
振付もほとんど終わり、あとは本番に向けてブラッシュアップするだけ。娘は花に魅せられる蝶々の役で踊る予定だった。
小学生中心のメンバー構成。とても仲良し。みなで好きな音楽を選び、春の世界観をイメージして作り上げる時間はとても楽しそう。
ご高齢の先生が一人で指導する小さなバレエ教室だった。コロナ禍を経て開催される発表会に向けて、親子とも気合いが入る。先生のイメージする「空間芸術」のあり方を子どもたちが受けとめ、表現する格好の機会となるはずであった。
「二週間後には戻ってきます」
発表会まであと二ヶ月となったある日。前触れもなく、先生は治療のため入院した。「毎日、足上げ100回と振付の練習をするように」と言い残して。
先生はその後腹膜炎を起こし、体調は芳しくないと風の噂で聞いた。約束の二週間が経っても、レッスンは再開されない。本当に発表会に出られるのだろうか。不安な気持ちと、先生の回復を祈る気持ちと。娘が年長のときから慕ってきた先生を思うと、気が気ではなかった。
それから一ヶ月。先生の訃報は突然やってきた。バレエ教室に通っていた親子は、あわただしく先生のお通夜に参列した。「振付の仕上げをしなくては」と、最後まで心残りにしていたと聞いた。
娘が祖母のように慕ってきた先生がいなくなった気持ちと、目前に迫った発表会が立ち消えたなんともやりきれない気持ちが、脳裏に浮かんでは消えていく。
翌日夕方、娘と散歩に出かけた。二人とも終始無言。風が強く、足元には桜しべがパラパラと降りつもる。濃ゆいピンク色と化した地面を眺めては、並んで歩いた。一度は舞台に立ちたい気持ちでバレエを続けてきた娘に、なんと声をかけたらいいかわからなかった。
「一回でも、舞台に立ちたかったね」
娘は涙目だった。
発表会は幻となった。開催されるはずの日時を過ぎた頃、いつものホールでささやかなお別れ会が開かれた。
子どもたちはいつも先生が座っていた椅子にあいさつし、振付を思い出しては踊り、全力で遊ぶ。先生はホールに来ていて、すでに子どもたちは前を見ていた。先生が在りし日の景色と、何ら変わらない。残念がる母親らを尻目に、子らはすでに気持ちを切り替えていた。
はっとした。後ろばかり見ていたのは、私の方だったと。娘は発表会の舞台に立つことはできなかった。それでも発表会に向かって努力していた時間は、確かにあったと。見上げるとすでに桜は散り去り、緑さす光が空に広がっていた。
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