フェミニストは婚約指輪を貰っちゃいけないの!?

フェミニストは婚約指輪を貰っちゃいけないの!?


婚約をした。少しずつ周囲のお世話になった方に報告をしている時、

「フェミニストなのに婚約指輪を買わせたの?○○さん(共通の知人)にも婚約指輪買わせたらしいよって言ったらびっくりしてたよ?あ、べつに婚約指輪を買わせたことを否定しているわけでは無いよ?」

という言葉を、自分の親ほど年上の人から受けた。

さて、本題である。

①フェミニストは婚約指輪を貰ってはいけないのか
②婚約指輪を貰うことは誰かから否定や承認をされるようなことなのか

ということが私の脳裏にはとっさに浮かんだものの、あまりの内容に驚いて咄嗟のリアクションは思ったようにはとれなかった。
なのでここで文章化をしてみよう。

まず①フェミニストは婚約指輪を貰ってはいけないのか、ということについて。(“買わせた”という言い回しについては何かを言及するほどの必要性を全く感じなかったため言及するには至らない)。

結論から言う(私の話はいつも長いため)。
結論。フェミニストが生涯のパートナーにと自発的かつ相互の意思で選んだ人物から、婚約指輪を受け取る権利はある。ただし受け取らない権利もあると同時に、フェミニストからパートナーへと、婚約指輪を贈る権利もあるのだ。というか、ブツが婚約指輪でなくても同じことだ。
特別な贈り物を私たちが親密な相手に贈ることも受け取ることも、私たちの自由の権利のものである。
「意思」の尊重とはする・しないを他者の利益を害しない範囲で自由に決定でき、また誰からも批判されることなく胸を張って良いということである。

そして、他者の権利を害することのない、今回の恋人やパートナー間での約束や思い出、記念の品のやり取りについて「フェミニストだから」という理由で上記のような言葉を受けることは、フェミニストという言葉が本来持っているはずである良さを殺したスティグマ化であり差別である。
これは、私個人への問題というだけよりも、「フェミニスト」に対する挑戦とも捉えうる。

フェミニストが、フェミニストであることで謗りをうけることがあってはならない。そしてその為にフェミニストは常に変化し続ける努力も怠れない。
フェミニストがフェミニストという言葉を逃げに使用した瞬間、「フェミニストのくせに」というニュアンスを相手に使用させる好機を作りかねないためである。

フェミニストであるということは、胸をはれることだと私は思う。そしてそれと同時に、フェミニストを名乗ることの無い人々も胸をはれる世界を、我々フェミニストは目指さなければならない。

そもそも、純粋なフェミニストというものはある条件(この場合は女性性)を理由に社会的弱者たらしめられた人々が、その不当な差別撤廃のために立ち上がった便宜上のひとつのかたちであると定義できる。
いわゆる「成人」が男だけを指していた時代、「女子供」と括られていた時代に、その人権に格差があったことを是正すべきだという考えから生まれたものである。であるからしてフェミニストが女性だけで構成される必要も無い。というか歴史上にも男性のフェミニストは沢山いる。
そう考えると、「フェミニストなのに婚約指輪を買わせた」という発言は実にナンセンスである。だって、フェミニストは特定の性別に拘らない。そして特定の性別役割(ジェンダーロール)にも固執しないのである。

お分かりいただけるだろうか。私が男でも女でもそれ以外の性別でも、私の生涯のパートナーが異性でも同性でもそれ以外でも、我々フェミニストは「婚約指輪は男が女に求婚するときに使用するもの」でもなく、「男が女の人生を我が下に置く担保として支払う身代金代わりの宝飾品」でもない。
贈る側と、受け取る側の双方の同意の元に「結婚しようね」という約束のタイミングでプレゼントした/されたものなのである。

つい先日、ブライダルジュエリーとして名前を聞いたことがない人はまずいないのではないかと思われる某ティ○ァニーからメンズ向けのデザインの婚約指輪シリーズが発表された。
現代の婚約指輪は、女性(花嫁)を生家の家長(父親)から新しい主人(新郎)が買い受けるための身代金のかわりのものではないのである。
婚約指輪は、男性が男性に贈ることも、女性から男性に贈ることも、女性から女性に贈ることも、男性から女性にメンズモデルの指輪を贈ることも、その逆も、そうでない性別のひとが相互に贈り合うことも、誰もあげないもらわないことも、今あげきれなかったありとあらゆるパターンにおいて、なんでもしていいのである。
だって、あげる人と貰う人の二者間でのみ完結することなのだから!


“女性は断頭台のぼる権利をもつ、従って女性は演壇にのぼる権利をも有するものである”

グージュの言葉である。
私はこの指標に2つの意味を読み取れるように思う。
ひとつは、男性の「声」と女性の「声」が対等に扱われない時代(一票の格差のようなもの)において、女性にも同じだけの権利があるのが当たり前ではないか?(なぜなら男性と同じように断頭台には登っているのだから!)といった額面通りかつ非常に重要な意味である。
しかしまた一方で、もしもこの先、人類に差別意識をもたずに社会を構成する力が備わったのならば、この文言は、「その責任をおう覚悟のあるものには、相応しい権利があって然るべきである」という、自らの言動、思想の影響を引き受ける覚悟と準備のあるものの言葉を妨げる資格は誰にもないのだ、という「男女ではなく成熟した人間」に科される言葉になりうるかもしれない(それは遥かに未来のことかもしれなくはあるが)。

フェミニストなのにという理由でなにかの行動を制限されるようなことがあれば、その時点でフェミニズムは新たなジェンダーロールに囚われて結局性差別からぬけだせていないという意味において死んだと言えるかもしれない。

私はアクセサリーやジュエリーが好きだ。キラキラしているものが好きだから。そこに、愛する人からのプレゼントとしての思い出まで付加されたら、もうとんでもなくそれは嬉しいに決まっている。だから間違いなく、もしも私の性別が男性だったとして、生涯のパートナーにと思った相手から指輪欲しい?と聞いてもらえる事があったとしたならば、間違いなく頷いて、貰った指輪は生涯大切にする。もし私が男性で婚約指輪を貰って喜んでいたら、そんな私を見て「フェミニストなのに婚約指輪を買わせたの?」と声をかける人はどれほど居るだろうか。私は女だから婚約指輪を受け取ったのではない。欲しかったから貰ったのだ。嬉しかったから喜んだのだ。自分で買うのではなく、愛する人から贈ってもらえる事実に舞い上がるのだ。

性別にとらわれては不自由だ。性別を理由に否定してはいけない。それはある形式であり、マクロにおいての利便性や普遍性はある一定程度認められるが、今話題にしているのはミクロな、とても個人的な温度の通った親しい人間同士の対話のかたちについてなのだ。次元を混ぜて批評は出来ない。
ミクロな関係性は、「わたし」と「あなた」で考えるべきことである。「わたし」が「あなた」の気持ちを想像し、「あなた」から「わたし」へ思いやりが示される。あるいは示されない。とても単純なものであり、単純であるべき大切なことなのである。


“終わり”









…長くなりすぎてもうひとつ課題を立てていたのを忘れていた。

②婚約指輪を貰うことは誰かから否定や承認をされるようなことなのか


………………How stupid?



~完~

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