【怖い話】 その部屋のルール 【「禍話」リライト 32】
「シャワー浴びてるとき、換気扇つけておいてくれ」
「えっ、なんで?」
「頼むよ。俺の部屋、そういうことになってるからさ」
Iさんが友達と半年ぶりに会った時の話である。
彼は地元に残り、友達は就職のため隣の市に引っ越した。とは言えさほどの距離はなく、1時間とかからない。Iさんが出向く形で、駅で待ち合わせた。
メシを食べて、カラオケに行き、さんざっぱら遊んだ後で友達の住むマンションに着いた。今夜はここに泊まるのである。
夏の暑い時期だった。カラオケで熱唱したせいか歩いてきたせいか、Iさんは汗をかいていた。財布と携帯の他には手ぶらで来ていたので、着替えも何もない。
「あのさぁ~、汗かいちゃったから、タオル借りてシャワー浴びていい?」
気心知れた仲なので軽く聞くと、あぁ、全然いいよ、と言われた。そこ入って、電源入れて、右のをひねればシャワーが出るから、と簡単な説明をしてくれた。
だがその後で冒頭のことを付け足された。
「シャワー浴びてるとき、換気扇つけておいてくれ」、と。
換気扇を回しながらシャワーを浴びると、天井にくっついた冷たい水滴が身体にポタポタ垂れてくる。少し嫌だ。シャワー終わりに背中にでも当たったらヒヤッとしてしまう。
それはちょっとなぁ、と想像していると、友達は先に部屋の中へと戻ってしまった。
久しぶりに会った友達の頼みと水滴の不快感を天秤にかけた結果、不快感の方が勝った。男のシャワー姿を覗いてまで確認しには来ないだろ、そう思った。
Iさんは風呂場に行き、換気扇を回さないまま、シャワーを浴びはじめた。
べとついた身体をお湯で流していると、ぺしょり、と肩のあたりに落ちてくるものがある。
熱いシャワーに対して、その水滴は熱くも冷たくもない。
やっぱ換気扇回したら落ちてくるじゃん、けど、それにしても天井に溜まるの早いな、と顔を見上げてみた。
Iさんは目が悪く、メガネをしている。
今はそれを外しているのでぼんやりとしか見えないものの、天井には落ちてきそうな水の集まりは見当たらなかった。
いよいよ妙だ。
と、肩のあたりにまたぺしょり、と一滴当たった。それを何気なく手の平で拭う。
ぬるっ、とした。
水やお湯ではなかった。
淀んだ沼や、濁った水たまりを思い起こさせる感触だった。
あわてて手の平を確認したが、茶色とか赤などの色はついていない。ただぬるっとした透明の液体である。
その液体はシャワーから出るお湯で、Iさんの手から洗い流されていった。
気味が悪くなったが考えても仕方ない。Iさんは借りたタオルで身体を拭いて自分のシャツを着直した。
短い廊下に出てからごまかすように換気扇のスイッチを入れる。少しだけ気がとがめた。
部屋に行くと、友達は座って待っていた。クーラーをつけていてくれたようで、火照った身体に冷風が心地よい。
「おう、ありがとう。上がったわ」
「うん、そう」
友達はこっちを見ながら続ける。
「換気扇は回した?」
「うん」Iさんは嘘をついた。
「水滴が垂れてきただろう」
「いや、別にたいしたことなかったけど…………多少ね」粘り気のある液体については黙っていることに決めた。
友達はIさんの顔を見ながら言った。
「悪いな。俺の部屋、そういうルールになってるから」
……「そういうルール」の意味が掴みきれなかったものの、Iさんは何喰わぬ顔でどっかりと隣に座った。
「おぉ、じゃあゲームでもすっか?」
友達の顔がほころんだので、Iさんも気がゆるんだ。
それから夜まで、酒を飲んだりゲームをしたりして時を過ごした。
夜中になって、さすがにもう寝ようかという話になった。
友達はベッドで寝て、Iさんは掛け布団だけ借りて床で寝ることにした。冬なら冷たくて我慢できないだろうが、夏なので問題ない。適度に冷房も効いている。
じゃあ寝るか。うんおやすみ。そう言い合ってから電気を消した。
Iさんはどこででもぐっすり寝られるタイプの人間だった。はじめて来るマンションの一室ではあったが、すぐさま眠りに落ちた。
ふっ、と目が覚めた。
どんな場所でも一度寝たら朝までまず起きない。その性質を自分でもよく知っていたので、Iさんはいぶかしく思った。
トイレに行きたいでもないし、冷房が効きすぎているでもない──いや、この部屋、あまり冷房が効いてない。ぬるい。どこかから暖気が入り込んできている。
ベランダに通じる窓は開いていない。そこでIさんは振り返って、廊下の方を見やった。
部屋と、玄関に通じる廊下を仕切るドアが開いていた。がらりと全部、開いている。
ははぁ、こいつ、トイレに起きた時に寝ぼけて閉め忘れたのかな?
友達はベッドの上でグーグー眠りこけている。
まったくもう、電気代もったいないじゃんか。仕方ないな、俺が閉めてやるか……暑いの嫌だし……
ドアまでは立ち上がって歩かなくてはいけなかった。暗いし、前述のようにIさんは目がよくない。物に蹴つまずいて友達を起こすのも悪いかなと考えて、外しておいたメガネをわざわざ掛けて起き上がった。
あ~めんどくせぇなぁ、さっさと閉めて…………
廊下を見たIさんは、その場で固まってしまった。
廊下の途中にある、風呂場のドアが開いている。
その足元の方から、女の顔がニュッと突き出ていた。
暗くてよく見えないが、こっちを向いているのはわかった。塀から首だけ出ているのを90度回転させたように、風呂場から真横に顔を覗かせている。
Iさんははじめは冗談かと思った。友達がタチの悪いドッキリでも仕掛けているのだと。
マネキンか何かを置いてるんじゃないか? そうだ、あんな低い位置から顔を真横に出すなんて、普通の人間には無理だ。
だが暗さに目が慣れてくるにつれて、人形や絵ではないことがわかってきた。
顔が痙攣するように小刻みに動いている。
あれは人の顔だ。
でもどうやって、あんな位置から顔が出せるのだろう。
そう考えた瞬間、根拠もなく「浴槽から身体が細長くグニャリと伸びている」様が頭に浮かんだ。
それでようやくわかった。
あれは生きている人間ではないのだ。
幸いにも女と目は合っていないが、Iさんはその顔から視線をそらすことができなくなった。
かと言って動いてドアを閉めることもできない。ちょっとでも動いたらあれが風呂場から出てくるような気がした。
目を離せず、動けずにいると、不幸なことに暗さに目が慣れてきた。闇の中に沈んでいた女の顔が徐々に見えてくる。目や鼻、そして口──
「それ」が見えたIさんの口から、思わず悲鳴が出かけた。
だらしなく半分開いた、女の口。
そこから、大量の涎がだらだらとこぼれていた。
へ、へへ、へへ、へ。
女は揺れながら静かに笑っている。
その揺れに合わせるように、涎が垂れていく。
あまりに量が多いせいで、音も立てずにずるずると糸を引いて落ち、床にべったりと広がっている。
Iさんの恐怖が限界に達した。女の顔から視線を切らないまま、できるだけ小さな声で「おい……おい!」とベッドで寝ている友達に呼びかける。
「ちょっと……起きろよ! 起きてくれよ! おい! なぁ! なぁって!」
冷房と生暖かい空気に挟まれながら、Iさんは必死に声をかけ続けた。
「お前そういうところあるよな」
ベッドからだしぬけにそう言われて、Iさんは反射的にそっちを向いた。
友達が、ベッドの上で半身を起こしていた。
こっちを見ていない。壁を見ている。こちらの様子を目に入れなくないのかもしれなかった。
「お前さ。やってないのにさ、やったとか言って。そういう風にごまかしてさ」
友達は怒気を含んだ調子で、こっちを振り向こうとしないまま壁に向かって言いつのっている。
「そういうことだからさ、そんなことになるんだろ。お前。いい加減にしろよな」
Iさんはその剣幕に怯えながらも、友達にどうにか助けを求めようとした。いや、単なる説明でもよかった。
「あの……あのさ……。これ、どうしたらいいんだ……? あの……あの女、誰……?」
「知らないよ!!」
一喝されて縮み上がった。
「知らないよそんなの! どうしようもないだろ!! 俺にどうしろっていうんだよ!!」
身も心も縮こまってしまったIさんだったが、とりあえず怒っている友達の方に行こうと思った。
ごめん、ごめん、でもさ、あの女、どうしたら……と謝りながら、床を這って、ベッドの側へ進む。
こちらに顔を向けずいまだに「ふざけんなよな! お前! そんなことしてさ! 俺だってどうしようもないだろ!」と激怒している友達に、もう触れるくらいの距離まで近づいた。
ベッドの上を見たIさんの心臓は一瞬、止まってしまった。
身を起こした友達の奥に、友達が仰向けで寝ていた。
目を閉じて、静かに寝息を立てている。
わけがわからなくなって身を起こしている方の友達に首を巡らせた。そこではじめてわかった。
違う。
この起きている奴は、友達じゃない。
似ているのは性別と後ろ姿の年頃くらいだった。髪型も違う。雰囲気も違う。声もまるで違う。
見たこともない男が、自分に怒鳴っているのだ。
「お前本当にやめろよな! なんでそういうことすんだよ。いい加減にしろよ!」
男の怒りは収まらず、Iさんは叱られ続けている。Iさんはベッドからも離れた。だか廊下へ続くドアへも近づけない。廊下の途中には女がいる。
どうしようもない。
真っ暗な部屋の中で震えながら混乱しきっていたが、あまりの恐怖からか頭の片隅が妙に冷静になってきた。
この男、俺に怒鳴ってないのかもしれない。
換気扇を回さなかったことに怒っているようにも思えたが、もしかして、壁越しに、あの女に対して怒鳴ってるんじゃないか?
このベッドの男と風呂場の女って、カップルなんじゃないか?
この部屋で口論があって、男が居間でどうにかなって、女があっちの風呂場で──
そう考えていたら、無意識に首が廊下の外に動いていた。
風呂場のドアから女がずるっ、と這い出てきたところだった。
声にならない叫びを上げてIさんはベッドに転がるように這い寄った。見知らぬ男の身体に触らないように友達の腕を取って無理くりに引きずり降ろした。
友達は「ふぇ……? なに……?」と寝ぼけている。
女が待つ廊下から外へも逃げられず、男が怒っている部屋の中にもいられない。
「起きろバカ!」と友達を叩きながら、Iさんは窓の鍵を開けて外に出た。背中で窓を押さえて座り込む。
なに……? どーしたの……? とまだぼんやりしている友達に向かって「お前! ここ、人が死んでるんだろ!?」と問い質した。
そう突きつけられても友達はまだ眠気がさめないらしい。口を開いて首をかしげている。
仕方なくIさんはシャワーのくだりから今さっきまでの出来事を噛んで含めてやるように語った。
肩に落ちてきたネバついた液体。開いていたドア。女の顔。垂れていた涎。ベッドの上で身を起こして怒鳴る男。風呂場から出てくる女……
友達は話が進むごとに目が冴え、同時に顔が青ざめていく。
「だからさ! こういう部屋だからなんだろ!?」
Iさんは最後の最後に言った。
「女のよだれが垂れてくるのが耐えられないから! 天井からの水滴だってことにして! それで換気扇を回してるんだろ!? だから俺に換気扇回してくれって言ったんだろ!?」
「……俺、そんなこと言ってないよ……?」
友達は小さく首を横に振りながら答えた。
「言ったよ! シャワーのとき換気扇回してくれって! この部屋そういうルールになってるからって!!」
「そんなこと言ってないよ……。ないよ……そんなルール…………」
顔を真っ赤にして詰問していたIさんの顔から、一気に血の気が引いた。
じゃあシャワーを浴びる前に聞いた声も、あの男のものだったのか。いや、確かにこいつの声だった。
こいつもしかして……おかしくなってるんじゃ……
季節が夏だったのは幸運だった。Iさんと友達は夜も引かぬ蒸し暑さに包まれながら、それでも身体の芯に冷たいものを感じつつ、明け方までベランダに座ってじっとしていた。
友達がいつ「おかしく」なるかIさんは気が気ではなかったが、無事に夜は明けた。
怖々と部屋の中に戻った。テーブルもベッドも昨晩のまま。風呂場の戸も閉まっていたし、廊下にネバついた液体の池もなかった……廊下と部屋を仕切るドアはがらりと開いていたが。
Iさんと友達は昨晩からほとんど変化のない部屋の真ん中に立ち尽くして、しばらく呆然としていたという。
後日このマンションを調べてみると、確かにこの部屋だけ、両隣と比べて1万円ばかり安かった。
「ええっ……でも俺、不動産屋からは……特に変なことは言われなかったよ…………?」
友達が泣きそうになりながら言った。
不動産業の決まりとして、「ひとつ前の住人」に何かあった場合、次の住人には「この部屋ではこういう不幸がありまして」と告知する義務がある。
だが、ひとりでも誰かが住んだ後だと、その次の住人への告知義務はなくなってしまうということを、さらに後日になってから知ったそうだ。
「お前がとり憑かれてたのか俺が話しかけられたのかわかんないけど、とりあえずここはやべぇぞ?」
そのIさんの忠告に従って、友達はさっさと引っ越して、今は平和に暮らしているという。
知らないうちに「そういう」部屋に住んでいるということが、世の中にはままあるのかもしれない。
【完】
☆本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」
THE 禍話 第31夜 より、編集・再構成してお送りしました。
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