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戸田真琴著『そっちにいかないで』を読んで



「美しい」と思った。
見えている世界、冴え渡る感受、編まれた言葉、それらすべてそのものである著者を、美しいと思った。
”美しい”以上の表現を知らない自分が悔やまれるくらいそう思った。

そしてこの本を読み終えた今日は、昨日より世界が少しだけ美しくみえた。

この世界でもう少し生きてみようかな、そう思わせてくれる本だった。

彼女の、妖艶で明晰な表現の世界に足を踏み入れたとき、まるで映画を見ているような、いやそれ以上に、自分がその世界の一部になったかのような、まるで著者と同じ目線の高さと視点からその世界をみているような錯覚に陥った。

そして、不遜ながらその世界に私の心が共鳴する瞬間が一度や二度ではなかった。

私の、永久にパンドラの箱にしまいこんだ(はずだった)過去の感受や想いを次々と想起させる彼女の豊かな表現力。その表現力を前に、私は為す術なくただそれに従うしかなかった。

そしてパンドラの箱が開いたことによって想起された、自分ではうまく肯定できなかった過去の感受や想いが、その世界を通して見ると、まるで美しいもののようにみえた。
過去私はその感受や想いと向き合って向き合って向き合って感情のピントを探り、幾度となく否定と肯定を繰り返し、何度も着色を試みた。しかしその結果、もう何色なんだかどんな形状なのかすら自分でも分からなくなった。
そして、形も色もわからなかったそれが、彼女の世界を通して、白く眩い光に見えた。

それは、わたしのほんとうの意味での「初恋」で、でも女の子たちの間で交わされる恋バナというステージでは理解されることのないそれだった。

本を読み終え、改めて過去の感情と向き合う私を前に、はるかが言った。

「ほんとうに、そうかな」

今なら認めることができる気がする。
この場を借りて、初めて言葉にできる気がする。


あれはまぎれもなく「愛」だった。


ただそんなに聞こえのいいものでもなくて、感情の肥大さに恐れおののき、愛を知るまでの過程で、私はずっと加害者の気分だった。

自分の美しさが醜さに見え、ただあたためたかったその人の温度を、自分が奪っていると感じたとき、自分という全てを否定したくなった。
なぜなら、(本書のp57〜58の一節にもあるように)それまでの私の養分となったすべてのことはこの愛のために在ったから。
私のこれまでのすべてがその愛の在り方と結びついていたから。

そして、彼の心の返り血を浴びもう獣にしかみえなかった私のそれが、この本の世界を通じて光にみえた。
獣が光にみえたとき、私の中の何かが息を吹き返した。


この本を通して、贅沢にも、彼女の内臓に近い大切な一部を見せてもらい、これまで彼女が生んできた芸術からのエネルギーが、より強く確固なものとして改めて迫り来る感じがあった。

これは彼女の過去のツイートで、私の大切にしている言葉だ。

彼女の作品に、私の心が反射するとき、私は私でよかったと思えるし、その反射は、私の美しさの肯定だった。
彼女はいつも私が美しいことを教えてくれる。

ほんとうに素晴らしい芸術に触れたときに感じる、あの、晴れた日に太陽の光が反射してきらきらと光る川の水面のように、光源を直接見なくてもその光の存在を確信する感覚。まこりんという芸術に触れている瞬間は、いつもこころの水面がきらきらしていて、自分の心の奥にある一番白くて美しい光を自覚する。
彼女の紡ぐ様々に、心が共鳴するとき、またひとつ過去の傷が光になり自分が「美しさ」に1歩近づいたことを確信する。

彼女は私に指針をくれる。いつも。
特に、「少女と、かつて少女だったすべての人へ」という記事はもう何度読み返したかわからない。

信じたいものを信じるには強さがいるし、覚悟もいる。
私はまだまだ未熟だから、流されそうになったり迷ってしまうこともある。
そんなときは彼女の記事を読んでゆるんだ地盤を整えた。

この本は、その地盤になる本だと思った。

私が信じたものを、胸を張って美しいと言えるようになってきたのは彼女のおかげだ。

誰に言わなくてもわたしの大切なものはここにある。ちゃんとある。

そのことをこの本に、彼女に教えてもらった。

まこりん、いつもありがとう。

私が私を見失いそうになったときや道に迷ってしまったときは、またこの本に帰ってこよう。

きっと私の大好きなひとが言ってくれるから。

「そっちにいかないで」と。


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