人間て何?人類の誕生から考える
「人間て何?人類の誕生から考える」
私たちが社会を考える上で、その社会を構成している人間がそもそもどういう存在なのかを理解するのは重大な課題です。
今回の講座(ソシラボ社会科学研究室の基礎講座)はそれを人類史からとらえようとする内容です。
人類が進化の中で得てきた諸形質と、その諸形質を獲得するにあたって大きく影響した労働と社会関係、これらを検討しました。
私たちは、人間です。そのことを疑う人はたぶんごく少数でしょう。もちろん、征服者が征服した他民族のことを獣扱いしてきた歴史もありますが、今ではその他民族の人々を動物と考える人は少数でしょう。
それに、私たちが他人をどう考えるかを別に、ヒトはヒトの遺伝子をもつ生物ですから、そういう事実が客観的にあればヒトですし、たとえしゃべって、直立歩行するヒト型の存在であっても、アンドロイドはアンドロイドであって、ヒトではありません。
「人でなし」という言葉があります。unhuman非人間的という言葉同様にこの言葉は、まず、人というものの概念があって、だから、その概念からはずれた精神の持ち主や、外れた行動をする人を非難する根拠となっています。
では、その「人」とは、どういう存在と考えたらよいのでしょうか?
1.ヒトとはどういう存在か?
優しさがある?やさしくなければ人間でない!?
平和を愛する?平和の敵は非人間だ!?
なにか、ありそーな、それはそれで同意したくなるけど、というキャッチコピーにみえますね。
うーん。そういう規範的な人格者を人間らしい人というように言ってよいのでしょうか?
逆に、失敗したり、悪いことをしたり、嘘をついたり、裏切ったりも、人間らしい弱さだと言えば、
人間的って、そういう、行為の発生を許す根拠を示す言葉にもなります。
ますます、難しくなりますね。
では、こう考えてみたらどうでしょうか。
(1)進化を通じて考える。
それは、ヒトが最も単純な状態である時期に遡って、ヒトの原型を考えてみることです。もちろん、現在のヒトを抽象的に考察しても、そういう原型を考察することはできます。でも、その考察方法ってむずかしいですね。ここは、これまでの歴史で習った話しを通じて、イメージしやすい、ヒトになったばかりの生物がどのように成長するタネを宿しているか、見ていきましょう。
私たち人間は、他の生物と同様、進化の過程を通じて生まれ、また、進化の過程の中にいます。
進化を信じない人もいますが、この間脅威をふるってきた、新型コロナ・ウィルスの変異株とか、鳥インフルエンザやサーズの進化など、すでに存在している生物から派生的に新たな生物が生まれるのに、私たちは、もう慣れていますよね。
生物の進化には目的性があると思います。言葉になるような意志ではありませんが、生物は、自らがヨリ生きやすい、種を繁栄させやすい環境を求めるようにプログラムされています。同時に、より生きやすくなるために、環境に合わせて、あるいは環境を変えるために、自らを変化させるのです。これが、進化です。
そうすると、進化を経て獲得してきた諸性質を考えることで、ヒト以前の先祖たちは何を求め進化したのか、その進化の過程で得た形質とは何で、そのことが今の私たち人間の身体や精神にどのような影響を与えているのか、そういうことを見つめられることになります。
(2)ご先祖様、さようなら
貴方のご先祖は?と聞かれて、私は、「私の先祖は、土佐の下層武士で、脱藩して…」とかは言わずに、「私の先祖ですか、確かサルでしたよ。」と、答えることにしています。「それよりずっと前は、コアセルベートと言って、波間にただよっていました」、と。
それはさておき、ゴリラやチンパンジーの仲間である霊長類の進化の枝の中からヒトはいつ枝分かれしたのでしょうか?私が高校生ぐらいだった半世紀前の歴史の教科書では、だいたい200万年ぐらい前に直立猿人が登場し…となっていたように思いますが、今では450万年より以前にサルと分離したように記されています。
とにかく、ご先祖さまはサルの仲間でした。もちろん、ニホンザルから日本人が進化したわけではありませんよ。え、おじいさんがニホンザルに似てるって?そんなこと言ったら、おじいさんにも、お猿さんにも失礼かもしれませんよ。
私たちの先祖が樹上生活をしていた証拠が、私たちの手です。親指が他の指と向かい合って、枝を掴むことができます。滑らないように指紋もあります。猫は爪で着に登りますが、肉球に指紋があるわけではないですね。犬は猫のような爪がありませんから、木登りは苦手です。
たぶん、あるとき、ヒトは、より強い生物によって樹上生活から追われてしまいます。こうして地上に降りたサルになるわけです。地上に降りたサルのうち湖や川や海のそばで暮らしていたものたちは、強敵に襲われると水中に逃げて難を逃れたり、水中の餌を採るようになります。
すると、体毛が抜けていきます。私たちが体毛の少ないケモノなのはそういうことなのではと考えられます。同時に、後ろ足だけで立って顔を水上に出す姿勢をとるのが当たり前になります。
そうすると後ろ足が脚になり、背骨と重い頭を支えるように発達し、さらに前足が自由になります。自由になった前足は、新たな生活スタイルを生み出す柱となります。生活のための活動として、ものを掴み、ものを振り、ものを投げるといった労働を通じて、人間は道具を使う生物になります。
(3)労働がもたらしたもの
道具を利用した労働は、ヒトの骨格、筋肉、神経を発達させて、ますます上手に道具を利用することで、生産力を高め、生活を豊かにする手段となります。
人間は、とっても弱い生物です。生まれて直ぐは立ち上がることもできず、一定の年齢に達するまで、保護者に育てられる必要があります。
これは、直立歩行による骨格の変化によって産道が狭まり、他の動物たちと違ってヒトが未熟児状態で生まれることを余儀なくされるからです。そのため、一定期間子どもと自分を守るために、女が男を一定期間引き寄せるように両性の情愛関係が形成されたとも言われています。恋愛ホルモンの持続期間は4,5年だとか。それをすぎたら長すぎた春になっちゃうとか。まあ、一生、恋愛ホルモンが継続するカップルも存在するという研究もあって、単純に恋愛期間は長いとダメだ、だから短期決戦だ、とかは言えないようですが。
(4)集団と言語的コミュニケーション
チンパンジーと比べて腕力は半分以下、ツメも牙もナマクラな人間が、自然に対峙して生き残る手段の一つは、集団による労働(協業)です。一人と一人の結合労働力は、単純な足し算ででゃなくて、一人では永遠にできないこともできるようにしたり、より効率的に目的を達成したりできる条件となります。
だから、弱い生物ヒトは、集団を形成して共同労働をおこないます。
その時に求められるのは集団の意思疎通です。
「そっち!」(獲物が、そっちいったぞー!という意味)
「おーっ!」(わかった)
なんてことが必要になります。
言葉が何処で生まれたかについては、このような狩りなどでの共同作業の場ではなく、ヒトの集団生活の場で生まれたと主張する研究もあります。いずれにせよ、生活の必要性から生まれた言語は、意思疎通の手段、言語的コミュニケーションの手段として発達していきます。
ここで言語的コミュニケーションとわざわざ言っているのは、接触や身振り、目配せなど、言語が未発達な他の動物にもコミュニケーション手段があり、生殖や共同の狩り、集団移動などで発揮されるコミュニケーションが存在するからで、本当は、言語が無い動物でもけっこう社会的な側面を持っている場合があると思うからです。
(5)法則を知り利用する生物
そして、この時、大きな力を発揮するのが、背骨に支えられることで、大きな容量と大きな重量になることが可能になった脳です。
労働を通じて発達してきた神経系統の中枢を司る脳は、言語中枢としても発達し、やがて、ヒトの外に存在する自然や社会の法則、ヒトの心にある法則を認識するようになります。森羅万象を分析し、分析に基づいて得られた法則を自分の目的のために使用する、主体として、自らを自然から自立させていくのです。
法則の認識というとちょっと難しいようですが、例えば、水は高いところから低いところに流れるとか、光は物陰には届かないとか、ヒトはだれも死んでしまうとか、そういう事実を知ることです。
引力とは何か、光とは何か、生命とは何か、といったことへの完璧な回答でなくても、経験的に知った部分的な法則は、それ自体は客観的な現実を反映しています。もちろん、光は神の闇は悪魔のといったとんでも幻想を媒介に生まれる客観的でない観念(虚偽意識)といったものも生まれる場合もありますが、日常的な生活の中で実践によって確かめられることを基本に、法則への認識は高まり、その利用も進みます。
このことは、さらに人間の脳を発達させることになります。
人間の脳は、全てが人間脳として、均質のものではなく、生物進化の発展段階に沿ったようないくつかのパーツからなりたっています。これが、生命力と生殖力を司る間脳や中脳に対して、哺乳類として発達した大脳、とくにヒトになって発達を遂げた大脳前頭野があります。そして、それぞれはそれぞれの信号、衝動を発信し、人間の心理や行動に影響を与えます。
大脳前頭野の働きを弱めるアルコールの摂取は、人間を衝動的にしますが、アルコールが抜け酩酊から醒めれば、理性的に自らの行動を反省するといった具合です。
(6)オカルト体験
人間が疲れ切ってしまうと、脳内の神経が乱れます。こういう時に人間は、幻影、幻聴、身体の硬直などの「霊体験」を味わうことができます。つまり、霊はいないけど、霊体験はできるのです。
人魂がプラズマの現象だというのも随分昔の発見です。したがって、人魂をみることは出来ますが、それは霊とは無縁なものです。
加えて、いわゆる「霊体験」をしやすいスポットがあります。
霊体験をしやすいスポットは、鉄橋や山頂近くのトンネル、墓場などで、そこは、雷の影響で鉄分が磁気を帯び、一定方向に強い磁力線を出している場所が多いと言われています。
つまり、普通よりも強烈な電磁波を受けて、脳内の神経のパルスに混乱が生じるので、通常ありえない事象を脳内で体験できるということです。
大脳前頭野のヒトらしい脳は、このように直接的な生物的欲求を自らのコントロールの下に抑制しようとしています。他の部分は部分で、黙り込んでいるのではなく、いろいろ発信はしているのです。この大脳の前頭野が麻痺することで、たとえば海馬という記憶を司る部位から、過去のデータが止めどなくあふれて、現実と混じり合って、神秘を体験する条件を生み出すのです。
だから、霊はいないが、霊体験をすることはできるということになります。
さて、話しを戻しましょう。
2.人間とは
発達した大脳は、森羅万象を分析し、それを利用する人間を真の主体にしました。そして、そのことがとっても弱い生物であった人間を、地上最強の生物にしました。
したがって、人間は労働し、集団を組み、言葉を話し、そして科学する、そういう生物なのです。
集団性の必要は、コミュニケーション能力の発達を生み出します。
このコミュニケーション能力を通じた、人間相互の理解と相互の関わりが、人間の社会的行動規範を形成していきます。
集団からつくられた行動規範は、集団の維持の必要性を自覚することです。
人間は、孤立しては生きられない生物、社会的生物です。
これは、個体の環境改善の課題と摩擦することもあれば、集団の維持を通じてよりよい個体環境を作り上げるという行動をも生み出します。
自らの生存と生殖欲求、オレがオレがというトカゲ脳的な段階を超えて、集団の維持の中で個体の欲求を抑制する、あるいは個体の欲求を満たすために集団を変える、こういう主体となりうるのが人間らしい脳の役割だと思います。
まとめると、ヒトは、労働を通じて自らを発達させてきました。ヒトの進化はそのような遺伝形質をヒトに与えていまる。ヒトは社会的動物として、共同社会の成員としての規範をその心的構造の中に遺伝形質として引き継いでいます。人々は、特にフォイエルバッハや若いマルクスの影響を受けた人々は、これを類的本性と言って、本来の人間らしい社会である共産主義を人間が作り上げる根拠にしてきました。
(1)共同的な社会性「類的本性」は存在するか?
それでは、人は類的本性を持っているのにも拘わらず、なぜ他愛的に生きていられないのでしょうか?
もしかすると、このような共同社会性は、人類の歴史で失われたのでしょうか?
現実の社会には、その類的本性を強く持つ個体と、あまり持たない個体が存在します。
私は、その現実は、両者のうちどちらの個体であれ、進化の試練の中で、いずれかが生き残るように仕組んだ、進化の戦略によるのではないかと思います。特定の遺伝形質異常とみられる個体が、特定の病原体に対して強い抵抗力をもっており、この遺伝形質を持つ個体が、繰り返し生まれてくることなどはそうした進化の戦略ではないかと思うのです。
加えて、人間の類的本性は、アプリオリな(生前的に存在する)衝動によって生じるだけでなく、アポステリオリな(後天的に獲得する)人間の行動を規制する諸条件の獲得の中で刺激され、発育され、そして達成されます。したがって、人間ははじめから100%公共的だとか100%他人思いだというのは、現実的ではないでしょう。しかし、それだからといって、人間の心的構造の中に共同社会性が存在しないというのも問題だと思います。
では、それをどう考えればいいでしょうか?
(2)先天的な心的構造と後天的な心への作用(刺激)と反作用(反応)の相関を見る必要
随分昔から、人は生まれながらにして善なのか、それとも悪なのかという議論、性善説と性悪説という議論があります。
実はこの両方の立場は、性善説だと生まれながら善である人間は良き導きを与えれば善なる存在として成長できることを主張し、性悪説だとヒトは生まれたばかりは善なんてわからんどうしようもない性質だけれども、良い教育をすれば善に導くことができる、と主張します。特に後者を人間はどうしようもなく性質が悪いといっているわけではないんですね。
つまり、後天的に与える刺激(教育)が、人を伸ばす、人を変えるということを否定しているわけではないんです。生まれたばかりの心的構造は、多様な刺激を受け、変化するものです。
そのことを理解すれば、類的本性について、単にもともと存在するとされる人間の本性が勝手に自らを花開かせるといった過剰な期待に陥ることなく、学び、教え、実践することを通じて共同性に反応し、それを行動規範にするような主体になりうる客観的な発達可能性を理解でき、それへの働きかけの課題が認識できるでしょう。
人間は常に類的本性から外れ、同時に類的本性に規定される存在です。この葛藤の中で、程度の差はあれ、私たちの心的成長があるのだと思います。この振れ幅は、社会的行動規範の刷り込みや、アポステリオリに獲得された経験と経験の捉え返しによって生まれる自我の発達に規定されます。ヒトを育てるのには、そのヒトの主体性とともに、その主体をとりまく環境の整備も必要です。
私は、人がそのような外的な刺激を受容し変化する可能性が人にはあると思うのです。だから、適切な教育や、個人の学習・体験を通じて、他愛的で人道的な人間が形成されるものだと思います。したがって、先達たちと同様に
人間にとって教育はとっても大切で、悪意を蓄積させるような教育の変質にたいして私たちはとても敏感であるべきだと思います。
参考文献:F・エンゲルス『猿が人間になるにあたっての労働の役割』大月書店