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皇室の新年恒例行事「歌会始の儀」とはナンゾヤ?

 ※-1 能登半島地震で始まった2014年の元日

 2024年の新年はいきなり能登半島地震にみまわれた日本国となった。ところが,岸田文雄政権のその対応ぶり,救援活動のありようは,いかにも「世襲3代目の政治屋」らしくピント外れのものがほとんどであった。

 要は,国民・市民・庶民たちが自然災害によって甚大な被害をこうむっていても,それはともかく「自助最優先の基本路線」で生きていけばよろしいといった,だから自分(たち)だけはけっこうノンビリとした対応ぶりになっていた。

国民のための政治にはからっきし関心がなく
自分のために国家があると勘違いしている「世襲3代目の政治屋」

 ゆえに,岸田文雄の態度は露骨に緩慢であって,切迫性などみじんも感じられなかった。被災地を訪れたのは「地震発生後も2週間が経ったあと」だったとなれば,この種の災害発生時に対する首相としての対応ぶりは,歴史に特筆されていいほどの「怠惰感」をにじませていた。

 あらためて断わっておくべきは,岸田文雄が首相として今回発生した能登半島地震に対する国家最高指導者としての指揮ぶりは,「世襲3代目の政治屋」としては,どうやらけっしてオトボケではなく,生来の「完全にぼけていて,イカレテいた政治感性」を,それも天然に表出していたことになる。

金与正とはもちろんハンドルネームなので
念のため

なおこの岸田文雄の着衣を松尾貴史が似顔絵にしていたので
つぎにここでも再度紹介しておく

『毎日新聞』から借りた
胸に着けた赤いバラであっても
能登半島地震の被災者たちの目線には

このような「灰色の花に映っている」
気持ちが分からない「この人」

 家はもちろんのこと,完全に倒壊してしまい失っただけでなく,なかには家族を何人もなくした被災地の人びとがいる現実を目前にしていながら,これほど冷酷・無責任な政権はない。そう非難されて当然なのが現政権であった。

 結局,「世襲3代目の政治屋」たちに態度をみていると,ふつうの人であれば自然に感じて湧いてくる当たりまえの感情(同情心)が,どうみても欠落状態にあった。これは以前から強く受けていた印象である。

 本日は2024年1月24日になっているが,実際のところ,あの2011年3月11日の東日本大震災発生後に福島県人たちがどのように救援されていた(もしくはされなかった)かを,あらためて思いださせるような,「現状の腐りきった自民党+創価学会党」の野合・デタラメ政権による「能登半島地震被災者たちに対する救援ぶり」になっていた。

 とりわけ「平和と福祉の党」と自称する公明党の存在感とみたら,最近はまったく影が薄いというよりは「その足元をみて〈2本の脚〉が本当に生えている」のか,「そもそも本体からして宙に浮いているのではないか」などと確かめたくなるほど「存在感」がない。

 つまり,野合的な性格だけがきわだつ「政教一致政党」のダメさかげんだけならば,明確にその姿を浮かばせているのが,以前からの創価学会公明党の本然たる姿であった。

 以上,2014年になったのだから「新年あけましておめでとう」といった,ハッピーなことばがゆきかうと思っていたら,1日から能登半島地震の襲来のせいで,おたがいに「オメデトウ」などと新年のあいさつができない,この年の幕開けとなった。

 石川県北部,能登半島の輪島市や珠洲市などを襲った地震は,M7.6の規模で震度7の激震になっていたが,この能登半島地震は半島の,ほぼ南西から北東の方向にまたがる北側地域(地帯)に多くある活断層が一気に,それもすでに百回以上,いいかえると,数千年に一度ではないかと専門家が指摘するほどの頻度で発生している。

 この一帯の地下10㎞以下の地層においてはまだまだ,多くの活断層がそれこそゴロゴロと動くようなかたちで,地震を発生させつづけている。今後においても震度5かこれ以上の震度になるかもしれない地震の発生が予測されている。今後においては,余震であっても別個に観察すれば本震と呼ぶのがふさわしいような大きな地震が,まだ発生するおそれがあると警告されている。

能登半島と付近の活断層分布
『ウェザーニューズ』
活断層の分布

【参考記事】


 

 ※-2 皇室内・新年恒例行事「歌会始の儀」とはなんであるのか? 公式行事としてはそれほど「古(いにしえ)」ではない事実など             

 「日本・国の伝統・文化」は『すべて皇室に源泉あり』だと創作しつつ,これを未来永劫に信じていきたかった「明治維新(威信)」以来の「創られたヤマト史物語」の含蓄は,いかほどに真価をもちうるものなのか

 付記)なお本稿は,2016年1月18日に初筆,更新 2022年1月19日,再更新 2024年1月24日(本日のこの記述)である。

 1)「コロナ収束,陛下の願い今年も 歌会始の儀」『朝日新聞』2022年1月19日朝刊31面「社会」

 a) 今年〔ここでは2022年の話だが〕も,この1月のこの日あたりになると,皇室行事として毎年の行事「歌会始めの儀」が開催(再開?)されたことを,各紙が報道していた。本日(2022年1月19日)の『日本経済新聞』朝刊にも,もちろん報道されていた。

 そこで最初に,『朝日新聞』の記事(紙面)といっしょに『日本経済新聞』からも,その様子を画像資料で紹介しておく。

『朝日新聞』2022年1月19日朝刊
『日本経済新聞』2022年1月19日朝刊

 「コロナ」ということばが両紙共通に見出しに使われていたが,つぎはその新型コロナウイルス感染症がすでに日本に侵入していたものの,まだ社会的には話題になる寸前であった時期,すなわち2020年1月の「歌会初の儀」に関した報道は,つぎのようであった。

『日本経済新聞』2020年1月

 しかし,翌年2021年になると,コロナ禍が周期的に日本社会を壟断する勢いで流行していったので,この「歌会初の儀」は中止となり,延期されざるをえなくなった。

 つぎの画像資料は『テレ朝 news』2021年1月8日の報道であるが,その儀の画像は,1年前のものをもちだして報道していた。

『テレ朝 news』2021年1月
この画像(放送した映像)の下には
つぎのニュース解説がなされていた
『テレ朝 news』2021年1月8日の報道

 2021年1月に開催予定だった「歌会初の儀」は,前段においてすでに,『朝日新聞』と『日本経済新聞』の該当記事をもって紹介していた。

 「新型コロナウイルス感染症」に対する医療のあつかいが,2023年5月8日から「5類感染症」に変更されたのにともない,コロナ禍そのものがひとまず収束したとみなされた時期を区切りに,医療体制側の対応が大幅に変更され,ひとまずその流行は大事ではなくなったとみなされた。

 もっとも,昨年 2023年から今年 2024年にかけての冬においても,新型コロナウイルス感染症がけっこう猛威を振るっていた事実は記録されている。このコロナ禍の対応は,まだ安倍晋三が政権の座に就いていたころから開始されていたが,いかにもアベ風に支離滅裂,しっちゃめっちゃかだらけに終始していた。

 当時におけるコロナ禍に対する安倍晋三政権のそのような対応ぶりをみせつけられた宮内庁としては,2021年の「歌会始の儀」は中止にせざるをえなかたものの,2022年は絶対に中止にならないようにと,万全の態勢で準備していたものと推察する。

 なにせ天皇関係や皇室行事のことになると,完璧を期さないとまずい官僚たちが大勢住んでいるのが宮内庁であった。「陛下」や「殿下」を「閣下」などと誤記したぶんには切腹モノの世界が,そこには,いまもなお実在しているかのようにみえる。

 また,2024年の「歌会始の儀」はつぎのように報道されていた。石川県への配慮をみせた天皇家側の姿勢にも触れる記事になっていた。なお,記事切り取りの関係(制約)があって,この画像にはその記事の段落は出ていない。

2024年「歌会初の儀」

 2) 清水 昶(しみず・あきら)『天皇陛下の銀時計』邑書林,1995年

 つぎに記述する題材は「皇室:天皇家と和歌」問題だということで,ネットで検索しはじめると初めにぶつかったのが,小谷野敦(こやの・あつし)による,この清水 昶『天皇陛下の銀時計』に関した言及であった。

 アマゾンレビューにおける小谷野の発言が,こういっていた。

 2013年9月5日,「5つ星のうち 4.0」を付けての言及であった。

 詩歌壇に疎いので,表題を見て,清水 昶が「天皇陛下」とかいう人になっていたのかと驚いて読んでみたら,表題作エッセイは,歌会始選者になった岡井 隆への批判だった。

 ほかは普通の文学評論もあるが,こういう人がいなくなって,なんとなく天皇よしみたいな人が増えていくのは嫌な世の中だと思った。まあ歌壇じたいが家元制度なんだけどね…。

小谷野敦の批判的な言辞

 小谷野敦のこの指摘を受けてだが,本ブログ筆者の手元にあったスクラップから,つぎの岡井 隆(生死年;1928-2020年)に関係する記載があるものが探し出せたので,これを紹介しておきたい。

 「皇室御用達の立場」となった岡井に対しては,ウィキペディアがこう書いている。関心のもてる段落・文節だけ抜き出してみる。

 旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校),旧制第八高等学校,慶應義塾大学医学部卒。医学博士。内科医師として,国立豊橋病院内科医長などを歴任した。

 1983年から,中日新聞・東京新聞に『けさのことば』を長年にわたって連載していた。2014年まで日本経済新聞歌壇選者を務め,中日新聞の歌壇選者も1983年から長年にわたり務めた。

 1993年から歌会始選者となり宮廷歌人となったが,そのことに対して歌壇では批判と論争が巻き起こった。2007年宮内庁御用掛。2016年,文化功労者選出。

岡井 隆の略歴


 

 ※-3「歌会始め」は正式・厳密にいえば古代でも明治でもなく「昭和の敗戦後・謹製」

 a) 前段に登場させてみた小谷野敦の指摘が「なんらかの批判」を示唆した点はいうまでもない。ところで『朝日新聞』のある「天声人語」の文章が教えてくれるところでは,「歌会始め」という天皇家の新年行事には,つぎのような意味があるとか。

          ◆〈天声人語〉歌会始の季節に ◆
         =『朝日新聞』2019年1月7日朝刊 =

 お正月気分が抜け,職場や教室がにわかに忙しくなる時分,新年恒例の「歌会始の儀」が催される。皇居から中継されるその行事は,ゆったりとした独特の節と旋律で際立つ。

 ▼ あの空間で朗々と歌うのはどんな人たちなのか。「全員が宮内庁から嘱託を受けた非常勤です」と話すのは,歌を紹介する「披講諸役(ひこうしょやく)」のひとり,園池公毅(そのいけきんたけ)さん(57歳)。本業は光合成を研究する植物学者。早稲田大学の教授である。

 ▼ 大学生のころ,元華族というつながりから,宮中の歌会にくわわることになった。古今和歌集,後撰(ごせん)和歌集,拾遺和歌集の「三代集」はいうまでもなく,新古今和歌集や千載集などをくわえた「八代集」もよく読みこんでおくよう求められたという。

 ▼ 旋律は「和歌披講譜」なる譜面を介して現代へ受けつがれてきた。楽譜とはいえ五線譜はない。すべては漢字と棒線だけ。「神(しん)」はド,「壱(いち)」はレ,「平(ひょう)」はミを意味する。暗号のようである。

 ▼ どの歌も独唱から始まる。途中から数人がくわわり,男声合唱団を思わせる重厚な音があふれ出す。聴き始めこそ,のんびりした進み方にとまどうが,岸に寄せる波のようなリズムに身をゆだねるうち,数百年前の文人たちと同席したかのような不思議な感覚が身に染みこんでくる。

 ▼ 和漢の素養を動員し,風景や情感を三十一文字で表現し,それを一定の音律に乗せて披露する。和歌とはいってみれば,文学と音楽の境界線あたりで栄えた総合芸術なのだろう。今年〔2019年〕の歌会始は来週16日に開かれる。      

『朝日新聞』天声人語

 以上の説明のうちとくに,どうしてもピンとこなかったのが,「聴き始めこそ,のんびりした進み方にとまどうが,岸に寄せる波のようなリズムに身をゆだねるうち,数百年前の文人たちと同席したかのような不思議な感覚」と表現していた,それも無条件にきわめて好意的であるかのような評言が,「ともかく話題の前提になっている」 かのような口調であった。

 その意味に忠実に即していうとしたら,また逆方向にも「不思議な感覚」が湧いてくる点は否定しきれまい。そもそも,いうところのその「数百年前の文人たち」と記述するとき,その「数百年前」とは具体的には,いったい「何百年前(のころ)」を意味することができるのか?

 2百年前かそれとも10百年(千年)前か,そのどちらにでも任意に解釈できるような説明であった。だが,それでは説明〔になっている〕というよりは,単に「そうであった」と「考えてみたい」とでもいいたげな,それも,あくまでその解釈のひとつであったとしか受けとめようがない「感想」であった。

 b) 関連する解説記事の紹介

 ここでは,つぎの『朝日新聞』2016年1月10日朝刊に掲載されていた「関連の解説記事」を紹介しておけば,その付近になんとはなしに,まとわりついていて離れなかった疑問は,おおよそ晴れるはずである。確かにこの記事のなかには,以上に示した疑問に答えうる中身が用意されていた。

 以下の新聞紙面は,上の記事は敗戦後の,下の記事は主に明治期からの関連する事情を記述しているが,要は敗戦前は皇室内で皇族たちが自分の,いわば素養として和歌を詠っていたものを,敗戦後になると突如,国民たちを歌会に招きこむ行事を「創っていた」

 その事実が「戦後の民主化」という動向となにか関係があったかと問うことじたい,かなり怪しげな雰囲気も伴う「皇室関連の政治問題」にもなりそうであって,天皇家側のいわば「戦後生き残り戦略」の一環であったとみなす解釈もできる。

『朝日新聞』2016年1月記事1
明治天皇は個人的には和歌が大好きであった

 前段に提示した疑問に答える屈折点は,明治維新と敗戦にみいだせる。敗戦までは皇室内行事というか,むしろ自家製の内的な行事であったと観られる。

 敗戦後,天皇・天皇制を日本国憲法のなかにどのように定着させるか,それも上手に軟着陸させるかという問題意識のなかで,こうした「歌会始」の様式(つまり儀式)も『創られてきた』とみるのが,適切かつ穏当な〈歴史の解釈〉である。

 それを,いきなり古代史にまで遡りたいかのようにして「天皇家と短歌の問題」をもちだすようでは,関連する歴史上の諸問題を議論するさい,不要・無用に,しかもやたらに混乱させる原因になる。

 前段までの論及の性格とはひとまず別様に,前段で引用した『朝日新聞』2016年1月16日朝刊の「歌会始の儀」に関する報道としては,つぎの解説も掲載されていたので併せて紹介しておく。

この種の解説記事となるとある意味
国民たちに向かい皇室脳の共有を要請したも同然

 以上のごとき問題は,これを根本から捕捉しなおいたいのであれば,たとえば,内野光子が『短歌と天皇制』風媒社,1988年で批判した観点が不可欠である。

 内野光子はまた別途に,平成天皇夫婦の間柄における「妻が夫に対して一歩下がってしたがう基本姿勢」についても,別著『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房,33-34頁で,批判を繰り出していた。この点は,後段でこんどは令和天皇夫婦の場合をもちだして関説するので,内野光子のその頁の記述はあえて紹介しないでおく


 ※-4 敗戦後,日本国憲法のあるこの国においての話題となってもいるが,皇室・皇族内における「男女平等の価値観」がいまだに倒錯だらけ〔というかそれ以前に無縁〕である事実は,申すまでもあるまい

  ところでここでは,2021年3月に発表されていた最新の『ジェンダーギャップ指数』を紹介するが,つぎのとおりになっていた。

 2021年の日本の総合スコアは 0.656。調査対象である 156カ国中 120位という位置づけだ。前年のスコアは 0.652で 153カ国中 121位であったことから,ランキングこそ1上がったもののスコア・順位ともに横ばいという状況であった。

 その2021年における日本の「ジェンダーギャップ指数」120位の上には,アジア諸国のうちからだけ抽出するが

  79位のタイ, 87位のベトナム,  101位のインドネシア,
  102位の韓国,103位のカンボジア,106位のネパール,
  107位の中国,112位のマレーシア,116位のスリランカ

と並んでいた。

 なお,2023年における日本の,ジェンダーギャップ指数の世界順位は146か国中 125位であった。2022年は 156か国中 116位という順位だったので,少し上昇していたけれども,2023年は落下。

 前段で内野光子が若干で触れていたことがらであったが,なにせ皇室じたいが,理想の女性のタイプが「妻が夫に対して一歩下がってしたがう基本姿勢」を,完全に否定していない。

 ややおおげさにいうことになれば,「三歩下がってついてくる女性」が好ましいとしてきた「日本古来の悪しきしきたり」「男尊女卑の代名詞」みたいなその習慣と,皇室一族が無縁ではない。それに似た風景は天皇夫婦がともに行動するときは,いくらでも再現される「2人の歩き方」あるいは「ふだんからのその間のとり方」になっていた。

 つぎの画像を資料にしてもらい,以上に論じた点を吟味するための材料に挙げておく。この夫婦の前後関係において保たれている〈位置の間隔〉が,全然気にならないという人もいるかもしれない。だが,以上のような疑念を疑念を排除できる事情はみつかっていない。

令和天皇夫婦

 

 ※-5 主題「『歌会始』によるお国自慢-オラガ村のすばらしい伝統なのか?-」  

  副題1「『絶対最上級』で誇られる皇室『歌会始』の歴史,その真相は?」
  副題2 「『戦争と平和』と『歌会始の関係』を連想する」

 1)「はじめての歌会始」『朝日新聞』2016年1月10日朝刊

 すでに言及のあった2016年10月10日の記事に関して再論することになる。関連して挙げてあった記事の現物画像は,前段にすべてかかげてあったので,ここから割愛してある。その画像をもう一度みたいという人は,面倒でも,一度前段に戻ってみなおしてほしい。

 『朝日新聞』同日(日曜日だったが)・朝刊30面「扉」欄が,新年における皇室の伝統行事として,毎年恒例に開催されている「歌会始」を,大々的にとりあげ紹介していた。

 もっとも,本ブログ筆者が調べた範囲内では,宮内庁やウィキペディアの解説に出ている程度以上のものが言及されているようには思えない,この歌会始に関する記事であった。

 そのほかにもネット上には,この皇室行事である歌会始について記述したものが,けっこうな数みつかる。だが,その内容は大同小異であり,変わりばえしない。

 要は,いかにもすばらしい皇室の伝統の文化としてこの歌会の行事があるのだと,ひたすら称賛一辺倒になる調子をこめて,それらの解説は書かれている。

 明治以来に『創られた天皇・天皇制』の由来に照らして鑑みるに,「和歌に対する皇室側の問題」が,以上に論じられている諸記述のとおりに,それも百%間違いなく,歴史的な認識として正確だという保証は,まずない。

 つまり,もともと基本的な疑問がないのではない。「歌会始の儀」に出席する皇族たちが,この和歌を読みあげる会に出向く服装からして「わけの分からぬ服装」をまとっていた。ここでもその部分を画像として紹介しておく。

 なにゆえ,古来からの伝統儀式を執りおこなうというのであれば,このような洋装で臨まねばならないかと,ただちに素朴な感想を抱かれて当然ではないか。

 「古式ゆかしく」「和歌を詠みあげる」儀式となるはずの,この歌会始の場であるならば,なぜ,もっと古式にのっとった格好(着衣)で皇族たちが出てこないのか。ごくすなおに考えてみても,そういった根本の「疑問 ?」が湧いてこないほうが,そもそもおかしい。

 前段,『朝日新聞』2016年1月16日朝刊に掲載された当該記事は,『歌会始の歴史』に関する説明を与えていたけれども,江戸末期にどのような理由があって,この歌会始が皇室(天皇家)においては「途切れていた」のかに関する説明は,この記事においては求めることができない。

 要は,その付近については一般的な説明だけしかなく,あとは一般庶民側が想像たくましく「皇室の伝統行事である歌会始」に,ともかく感心・驚嘆・憧憬だけしていればよろしい。ともかく,そのように受けとれるべき「皇室文化」があったとだけいいたいかのような,しかも権威主義的にも聞こえる説明内容であった。

 つぎは,前段で紹介した記事の中身そのものを引用しながら議論する。 

 ◆-1 皇室と国民 同じお題で心詠む

 イ) 新春恒例の「歌会始の儀」が〔2016年1月〕14日,皇居で開かれます。共通のお題をもとに出席者の歌を披露する宮中の伝統儀式はいまや,国民参加型の文化行事。宮殿ではどのように催されるのでしょう。

 補注)国民が皇室行事としてのこの「歌会に参加させてもらえている」という「上下関係が基本になっている」様子がうかがえる。以下のごとき儀式になっている。

〔記事に戻る→〕 共通のお題で詠まれた和歌を天皇陛下の前で披露し,新年を祝う。宮中行事のなかでも注目度が高く,宮内庁は「皇室と国民の心を親しく結ぶもの」と位置づける。

 補注)本当に,この歌会によって「皇室と国民の心を親しく結ぶもの」の真義が,文句なしに発揚できているといえるのか? 皇室(天皇夫婦や皇太子夫婦など)が「国民の心」と「親しく結ぶ」こととは,いったいいかなる意義をもちうるものとして,これを具体的に発揮できているのか?

 このようなもっとも初歩的な疑問をもって接する必要もある。皇室のことがらになると,なんでもかんでも「万々歳,ともかく,そのすべてがとてもすばらしいのです」(国民たちにとってもそうです!)という「紋切り型の口上」しか聞けない。これには疑問をもつほかない。そもそも「専断的な頌歌」になっている。

〔記事に戻る→〕 披露されるのは皇族方の歌だけではない。国民からも募り,近年は2万首前後が寄せられる。それらは選者5人に届けられて選考。最終的に選者会議で選ばれた10首が,多くの文化人らも招かれた歌会始の場で最初に披露される。

 その方法が優雅だ。披露は作者本人ではなく,披講(ひこう)諸役が担う。入選者の年齢が若い順に一首ずつ,まず「講師(こうじ)」が節をつけずに読み上げ,続いて「発声(はっせい)」と呼ばれる役が独特の節回しで初句を独唱。第2句からは「講頌(こうしょう)」という役割の4人が加わり斉唱する。一首あたり,3分ほどかける。

 補注)実際にこの「優雅」だとされる「詠み上げ」(読み上げ)を,国民たちも聞いたことがあると思う。だが,それが優雅であるかどうかについては,こちら側の聴き方によっても,大きく異なってくる可能性が残る。優雅と感じていなければならないと,それも半強制的であるかのようにいわれても,そのとおりには感じられない場合も多々ありうるゆえ,無理強いは要注意であった。

〔記事に戻る→〕 「耳で感じる世界」。選者の1人で歌人の永田和宏さん(68歳)はいう。「読師(どくじ)」という司会役は黙ったまま,目配せや所作で式を進める。歌は紙に書かれて披露されるのではなく,出席者は静寂のなか,耳だけで歌を鑑賞する。「元々,和歌は声に出して思いを伝えるもの。文字で歌を詠むことに慣れた現代人には新鮮な体験です」。

 補注)「耳で感じる世界」だとはいうものの,実際に聞くそれは「最初の頭出しの部分での子音」のあとには,音引きの要領で延々と「母音(アイウエオの長音)」が,ただただ続けられるばかりである。

 たしかに優雅といえば優雅,しかし冗長だといえば冗長,単にそれだけのことでしかなく,どっちのほうに転んで感じるかは,それこそまったくに聴くほうの勝手,自由,任意,気分しだいである。

 要するに,どうとでも受けとれられるし,また感じられるもするのである。とはいえ,ともかく「優雅だと感じねばならない」のが,この歌会での雰囲気になるということ。このありようにすなおに同感,共鳴できない者は,この雅びである「はず・べき」歌会の意義を理解できない〈うつけ者〉ということで,もしかすると非難でも浴びることにでもなるのか?

 ロ) 鎌倉時代中期には始まったとされる宮中の伝統行事が,どのようにして,いまのようなかたちになったのか。

 補注)歌会始に関していえば,「……時代……に始まったとされる」という定義のしかたじたい,歴史的に確証を欠いたまま,独自になされてきた。「古式ゆかしき」「和歌」の「読み上げ」がなされるというわけではある。けれども,ここで接しうる説明・解説では,なお隔靴掻痒の範囲に留まっている。

 なにせ録音機のない時代における話題ゆえ,これ以上に確たる話法は成立しえない。口伝が介在しているならば,その記録(典拠:古文書など)を公開して説明しなければならない。

〔記事に戻る→〕 大きな転換点は1874(明治7)年。皇族などにくわえ,一般の国民も歌を寄せることが認められ,5年後にはそのなかの優れた歌が式で披露されることになった。

 さらに戦後,入選歌を選ぶ選者が民間の歌人に委嘱され,お題も「春風来海上」といった古式ゆかしいものから「あけぼの」のような平易なものへ。入選者の式場への参列が認められ,テレビ中継も始まる。広く国民の目に触れるようになり,応募の数も増えた。

 補注)「古式ゆかしいもの」であった皇室の歌会が「広く国民の目に触れるようにな」ってからこの歌会の意味が,はたしてどのようなものに変わっていったのか? つぎに,たとえばだが,その部分的な解釈が出ている。

 「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは,他国にはない」と,元選者で皇室の和歌御用掛を務める岡井 隆さん(88歳,2016年当時)

 「歌会始は,日本の伝統文化が脈々と続いていることを世界にしらせる良い機会なのです」

 補注)ここで,日本以外の「他国にはない」と自慢されているけれども,そもそも日本語を使い制作されるのが和歌である。他国に日本語を常用する国があるかと問うまでもあるまい。岡井 隆は,前段において批判的に言及される場面があった。

 つまり,このような問答無用的な押しつけ的な発想によって,いいかえれば《絶対最上級》でもってする『お国自慢』,それも「皇室文化の伝統・文化に固有・独特なる歌会」がともかくあるのだという要領でもって,それも自分たちだけで勝手に思いこんで(!)説明されている「節」が,明確に示されていた。

 補注)なお,氏名の出てきた岡井 隆については,前段で触れたごとき言及があった。いずれにせよ,外国人たちに向けてもこの歌会始めの「その歌い上げ」を聞かせることまで,岡井は念頭に置いたうえで,そうした発言をしていたのか? 

 しかし,そのように一方的に決めつけられた格好であれこれがいわれたところで,そもそもが,そうした「想定することじたいが不可能である」はずの,つまり「他国にはない」はずを前提にしたこの種の話題であったから,理解に苦しむような「独創=独走」的な意見であったとみなすほかない。

 いったいどのようにしたら,想像もたくましくしてそのような「それでも比較できるかのごときの〈設定・話〉」が,独自に想定しえて可能になるのか? 非常に困った話題になった。そう感じるのは,筆者1人ではあるまい。

 たとえ話で説明したい。率直にいっておくと,約37億万人(2016年当時)いるこの地球上の女性のうち「なんといってもうちの女房が世界一の別嬪さんだ」といってはばからない,どこかのバカ亭主の自慢話とほとんど区別のつかないような,こちら側における「歌会始」の独創性に関する自慢をされてもネ,という印象をもつ。

 「自慢したい・誇りたいという気持」は,それじたいとしては,十分に尊重してあげたい。だが,他人・他国・他民族の歴史・文化・伝統にまで,一方〔侵略?〕的に及びそうな口調で,ともかく,歌会始はすばらしい,それも古式ゆかしいのだからと,その理由まで挙げていわれても,これはどこまでも「内輪であればこそ通りそうな理屈」でしかありえなかった。いずれにせよ,他国人・異民族の立場にあっては,どうしてもピンとこない〈自慢話〉になるのではないか?

〔記事に戻る→〕 万葉の時代から,人々は五七五七七の三十一文字で日常の風景や思いを表現してきた。歌会始の歌にも時代の世相が映し出される。2006年の皇后さまの歌は,阪神大震災から10年を迎えた神戸市を訪れたときのもの。2012年には天皇陛下が,東日本大震災の被災地を視察した印象を詠んだ。

 近年は小中高生らの歌も多く,学校単位での応募もあるという。口語的表現も増え,2013年には最年少12歳の太田一毅さんの「実は僕家でカエルを飼つてゐる夕立来るも鳴かないカエル」が選ばれている。「若い人が現代の感覚で自由に詠む。基本は守らないといけないが,実感として伝わってくる」と永田さんはいう。

 今年(2016年)のお題は「人」。どんな歌が披露されるのだろう。

 --昨日〔ここでは,2016年1月17日〕夜,NHKテレビ(総合)は〔そこから〕21年前に起きた「神戸・淡路大震災」のさい,救助体制の不備のため命を落とした犠牲者に関する,特別番組「NHKスペシャル ▽震度7 何が生死を分けたのか~埋もれたデータ 21年目の真実」を放映していた。

 このネットのNHK番組案内は,その特別番組「NHKスペシャル ▽震度7 何が生死を分けたのか~埋もれたデータ 21年目の真実」を,こう解説していた。

 ★ チャンネル --〔総合〕 2016年1月17日(日)午後9:00~午後 9:50(50分)

 ★ 番組内容 -- 6434人が犠牲になった阪神・淡路大震災。「生と死」に関する膨大なデータを分析すると,なにが命を奪ったのか,その真の姿が明らかに。大地震からどう命を守るか考える。

 ★ 詳 細 --21年前,被災直後に集められた「生と死」に関するデータ。死の原因,家屋の倒壊状況,火災の広がり方,救助の動き……。数十万件におよぶデータはさまざまな教訓を導き出した一方で,必らずしも十分な分析を受けないまま残されてきた。
 
 これらを最新の「データビジュアライゼーション技術」で,時間経過も組みあわせて分析すると,都市直下地震がどのように命を奪うのか,そのしられざる姿,そして残されたままの課題がみえてきた。

註記)http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2016-01-17&ch=21&eid=16933&f=46

「NHKスペシャル」

 この種の大震災事件の発生に対して,皇室の人間が和歌を詠んで悼み,同情するという精神的な「象徴的の行為」が,いったいどのような歴史の意味を,現実的に発揮しるのか? また,その犠牲者に対してなにかの供養になると信じていてよいのか?

 

 ※-6 元東大教授が説明する皇室関連知識-酒井信彦;1943年生まれのいいぶん-

 戦国時代こそ朝廷が真に生き生きと活動した期間であったこと,その後の皇室・朝廷のあり方を規定した時代であった。もちろん,この時代は朝廷だけではなく,日本全体が沸き立つように活動的であった時代である。戦国時代は動乱の時代であるにもかかわらず,生産力が飛躍的に伸びた期間であった。

 そして,戦国時代は日本を強力な統一国家,真に自立した国家にするために必要な,きわめて大切な時代であったのだ。その試練を通過することによって,冊封関係を清算し,度量衛を統一し,独自の貨幣を所有する本格的な国家が誕生したのである。

 したがって戦争には必然性がある。戦争が歴史を動かし歴史を作るのである。戦国時代の歴史を直視し,その意味を理解することは,現在のわが国に蔓延する,幼稚きわまる平和主義の虚妄を打破する,きわめて重要な一助となろう。

 補注)以上,「敗戦後体制」に怨恨を抱いているような口調である。また,平和よりも戦争の時代がすばらしかったとでもいいたい口調にも聞こえる。「戦争と平和」の問題はむろん,歴史を考察するとき避けて通れない現実の問題であり,回避できない論点である。日本の場合では「敗戦」という歴史の大事件を置いて考えれば,その重要性はただちに得心がいくはずである。

 しかし,平和をボケ症状みたく一方的にけなしておき,戦争(戦国)のほうがずっとよかった事象をもたらしてきたのだというような論調は,「人びと(庶民・人民)の立場」とは無縁である歴史への理解でしかない。

 「皇国史観」という歴史の観方があるが,「歌会始の歴史」も,皇室問題側からのとりあげ方に終始するかぎり,国民・市民・住民・庶民たちの立場は『「従」である位置づけ』になるほかなく,結局,天皇家側が「主」の立場になっている。

〔記事に戻る→〕 幕末維新期においては天皇の政治的機能が活用され,幕藩体制が消滅するとともに,朝廷じたいも消滅した。しかしそれ以後も皇室は存続し,戦争以前の時代には政治的存在としての役割が強調されたが,戦後は再び文化的機能が重視される存在に回帰していると思われる。

 結局,現在にいたる皇室の文化的権威は,戦国時代に成立したものであると考えられる。要するに戦国時代の朝廷が,その後の皇室・朝廷のあり方を決定したのである。

 補注)この意見は「戦国時代の朝廷」⇒「大日本帝国時代の皇室」という関連づけを指摘・強調したいものだったとすれば,一般的な皇室史(朝廷史・天皇史)に関する歴史認識とは,根っこから異なる「天皇・天皇制史への理解」となる。

 というのも,明治以来の敗戦までの日本帝国は,天皇制度の由来より回顧してみるに,その敗戦までの限定的な時期ほうが「例外的に〈武帝〉であった天皇」をいただく「マズイ時期」であったという理解になっていたからである。こちらの考え方が通説とされている。

 

 ※-7 内野光子の研究が歌会始の批判的研究

 内野光子『天皇の短歌は何を語るのか-現代短歌と天皇制-』御茶の水書房,2013年は,20世紀後半から21世紀にかけての歌会始をこう批判している。本書の「カバー〈帯び〉」に書かれている文句も同時に,画像にして紹介しておく。

内野光子の意見

 天皇制の存在じたいや天皇の国事行為の一環として,宮中儀式「歌会始」において短歌を公表することじたいがきわめて政治的である(同書,41頁)。

 この「歌会始」に対する批判は正鵠を射ている。それ以外に「歌会始」に,どのような価値がありうるのかと問えば,憲法上に規定されている以上に,皇室の存在価値を「究極的なもの:至上のもの」に位置づけようとする一手段として,この「歌会始」が隠微にかつ巧妙に利用されている。

 こういった「〈歴史認識〉=〈現代皇室の現実解釈〉」に反論できる者はいない。無理に反論しようとする者は,むろんいる。だが,論外の趣旨展開に説得力はない。

 有名な話である。昭和天皇は,1939〔昭和14〕年9月6日の第6回御前会議で,明治天皇の和歌である「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」を引き合いに出し,質疑を交わしていた。

 この和歌はとりわけ,敗戦後において関連する議論のなかでも,天皇裕仁の「敗戦後における措置問題」に関連させては,いかようにでも解釈される余地を生んでいた。

 とくに,内野光子『短歌と天皇制』風媒社,1988年から参考になる該当箇所(2頁分,180-181頁)を,画像資料として参照しておきたい。

内野光子・1
内野光子・2

 日本近代政治史の地平における「歌会始」は,この帝国主義が仮装してきた柔和な側面の一環を,意図的に反映させようとする皇室的な行事であった。つまり,「皇室内による文芸」が具体的に「政治面において表現」させられた実態が,この歌会始にこめられている機能の発露であった。

 内野光子『短歌と天皇制』をとりあげ,書評した道浦母都子は「短歌と天皇制の繋がり」という稿文をもって,こう評価していた。

 元来は宮中行事のひとつに過ぎなかった「歌会始」が,戦後は,国民的行事として装いをあらたにし,皇室と国民をつなぐパイプのひとつとしての役割を果たしはじめている。

 つまり,戦後の「歌会始」の歴史は,ある意味では歌壇そのものが,「歌会始」選者を中心として再編成され,国家における文芸管理という権力機構のなかに組みこまれていった過程ではなかったか。そう,内野は指摘している。

 この書には,戦時下,国威昂揚短歌をつくった歌人の責任を問う「歌人の戦争責任の行方」,短歌への言論弾圧を検証した「歌人は検閲をどう受けとめたか」の章も併せて収められてあり,文芸への国家介入の結末を示す警鐘の書となっている。

 註記)道浦母都子「短歌と天皇制の繋がり-書評 内野光子著『短歌と天皇制』文芸への国家介入の結末を示す警鐘の書-」,図書新聞編『天皇をめぐる開かれた論議』洋泉社,1989年,69頁。

 敗戦後における日本現代政治史でとらえなおしていえば,天皇(そして皇室・皇族全体も)が,「国:民の統合の象徴」とされる「憲法上の役目」をはるかに超え出た,さらなる特定の役目の〈あるひとつ〉をになってきた経緯のなかで,この歌会始がそれなりに制度的な機能をはたし,一定の役割分担をしてきた。

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