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ジャスミンの逆襲

これは以前に書いたメコンデルタの記事に登場する、ベトナム南部・ブンタウに住むトゥイとの壮絶な思い出である。

彼の娘であるリエンが結婚をするよりも、随分前の話。

当時、僕の顧客の1人にちょっと変わった経歴の持ち主がいた。
以前はレストランや寿司職人として働いていたが、その後、食を通じて海外との取引にも関わる業界に転職をした。

当時の彼は外食事情には詳しいが、海外での生産となるとわからない事が多いという事だったので、機会があれば一度そんな工場を視察したいという話をしていた。

僕がそんな依頼を受けた時に浮かんだのは、トゥイの会社である。
工場は新しい設備ばかりでは無いが、しっかりとメンテナンスされているし、何よりとても丁寧な仕事をするので、今回のお客に紹介するにはもってこいだと思い彼に打診すると、喜んで受けてくれた。

あとはこちらでトゥイとお客のスケジュール調整を行い、視察の日程が固まった。

数日先にベトナム入りしていた僕は、あとから到着するお客を迎えるために、日が暮れる頃にホーチミン・タンソンニャット空港へ出迎えに行った。

初めてホーチミンに訪れる人は凡そ驚くポイントというのは似ていて、独特の熱気と人混み、クルマやバイクの交通量に加え、都心部の店やひどい渋滞など、目を輝かせて見ている。
僕もそうだったが、初めて訪れる街というのは何もかもが斬新であり、とても楽しい。

当時は訪れるお客さんから色んな質問をされるが、大体の事は答えられるようになっていた。

トゥイは日本からはるばる来てくれたお客さんを気遣い、ブンタウに向かう前、ホーチミン市内で前泊する事を提案していた。

僕だけなら、地元ブンタウにある雑多な居酒屋に直行し蔓延っているのだけど、トゥイは僕のお客という事もあり、接待らしい接待をしてくれた。

既に予約していたレストランはかなり重厚な建物で、如何にも高そうなお店だった。

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そこでは、伝統的なベトナム料理を出してくれた。

お客も初めてだというベトナム料理を一通り堪能してくれた様子で、僕もトゥイも一安心した。

すっかり気をよくしたお客は、呟いた。

「初日からこんなに楽しい日はありませんでした。今回は初めてなのにスケジュールの関係上、残念ながら明後日には帰国してしまいますが、最後の日に僕からもてなしたいと思ってます。」

お客は少しだけこちらで用意してもらいたい物があるという事で、その場でサラサラと書かれたメモを僕に渡した。
トゥイと一緒に確認すると、そこには少量のお米とお酢、僅かな調味料があればいいという事だった。

トゥイはリストをみて全く問題ないと言い、最終日に用意すると返事をした。

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翌日は早朝からブンタウへ向かい、色んな場所を視察した。
お客の細かい質問に丁寧に受け答えするトゥイが少し、頼もしかった。

迎えた最終日。
お客から依頼された通り、米と酢を用意した。
用意したと言っても、やってくれたのは工場の連中だ。
そしてお客は、前職で培ったという寿司を披露してくれる事になった。

トゥイの工場で加工される多くの魚は品質がよく、ネタには困らなかった。
彼の手でどんどん握られる寿司の見た目はどれも最高だった。
そんな事をしている内、応接室には工場やオフィスにいる連中も何人か集まってきた。

お皿に次々と並べられていく美しい寿司を、まだ見たことも無いベトナムの人達が、声を出しながら話し合い写真に収めている光景は、なんだかちょっと可愛く思えた。

一通り綺麗に寿司が並ぶと、先ずは田所サンどうぞと勧められた。

軽く小さめに握られた美味しそうな寿司をほおばると、口の中で広がった。


地獄の様な風味が


最初僕は口の中で何が起きたのかわからず、思わず出してしまいそうになったが、そこは必死で堪えた。
そして口と脳では大至急、その原因を突き止めようとする。
ネタは悪くない。
むしろ鮮度が良すぎる程だったので、贅沢だと思う。
日本製のワサビもついていたが、そんなに辛くは無かった。
ちょうどよい塩梅で、ピリっとしている。
そうなると残りはシャリだけになるのだが、これに問題があった。

僕のすぐ隣に置かれていた酢にゆっくり目をやると、そこには大きなタイ語で何かが書かれていて、下段には小さく英語で記載されていた。

JASMINE RICE VINEGER (ジャスミンライスビネガー)

と書かれていたその酢は、日本で言うすし酢ではない。
ジャスミンライスなので「米酢」には違わないのだけど、それから醸造されるお酢の風味は、ちょっと表現のしようのない独特の甘さの中に混じる発酵臭が漂った。

お客さんと数名のスタッフは、一斉に僕のリアクションを伺っている。

「いやぁちょっとワサビが効いてましたね。美味しいです!」

と、咄嗟にウソをついた。
口に入れてからここまで、約15秒である。

お客はすみませんと笑いながら、ほんの少しワサビの量を調整しだした。

それを見ていたトゥイが、寿司を口にする。

トゥイはまた僕と全く同じリアクションをして、固まった。

そして僕の事を見て、お前なんでそんなウソを付いたんだという様な顔をしたが、そこは工場の代表である。

彼もワサビがツーンときたというリアクションをして、その場を凌いだ。
なかなかやるなと思った。

それを見た残りのワーカーは、そもそもワサビ自体を知らないので、それに怯えた2名が食べることを辞退した。
今思えば、彼らが一番賢明な判断である。

そしてトゥイの娘リエンを含む3名が、寿司を口にした。

リエンは口にした瞬間、わかりやすく微妙な顔をしたが、何とか食べ切った。

「こちらでは生魚を食べるという習慣がなかなか無いので、ちょっと慣れてませんね。」

などと、僕はベトナムにもう20年は住んでいるような口ぶりでお客に言った。

残り2名に関しては、口に入れた途端、吐き出した。

これは仕方ない。
誰が食べても極めて不味いのである。

ワハハと皆で笑いながらその場は済んだが、生まれて初めて食べる寿司の味が、こんな味なのかと衝撃を受けてしまっている2名には大変申し訳ないと思った。

違う。
全然違うのだ。

僕はその後数種類のネタを食べ、その都度口に広がってくる独特の香りに堪えた。

トゥイに関しては、電話が掛かってきたふりをしてそそくさと部屋から出ていった。

あの野郎…

部屋に残されたリエンと僕はほぼ半泣き状態になりながらも、握ってくれた寿司の殆どをなんとか食べ終えた。
お客は、とても満足そうだった。

最後に彼は自分で握った寿司を食べるのかと思いきや、箸でネタだけをつまんで食べた。

「シャリが混じるとどうしても、ネタの(本来の)味がわからないんで。」

そう言って数種類を食べ、どれも美味しいと言ってくれた。
なんと運のいい男であろうか。

一通り食べ終えた頃合いを見計らったかの様に、わざとらしく別の部屋にいたトゥイが戻ってくると、机にはまだ数貫お皿に残っているので、僕は是非『トゥイさん』も食べてくださいと言った。

こちらは既に笑いを堪えるのに必死だったが、トゥイはそれを無表情で食べ、最後にとても微妙な笑顔に加え、親指をアップしてみせた。

逃げても無駄である。

美味しそうな寿司がまさかジャスミン酢が原因でこんな大惨事になるとは誰も思ってもいなかったが、とにかくその場はうまくいった。

帰国後にお客は社内でプレゼンを行い、トゥイの工場で作られた製品のいくつがが無事に採用となった。

それ以来、トゥイと僕の間では何か事あるごとにこの日の話題が鉄板ネタになった。

寿司だけに。


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