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違和感は野生のカン

幼い頃から、家族が死に絶えた数年前まで、精神的にはギリギリのところで持ちこたえてきたと思う。
この間には感情を封印していた10数年もあるのだけれど、世間的には道を踏み外さず、自らをも傷つけることなく生き延びてこれたのは、友人たちのおかげもあるし、幸運だったと思っている。

チャップリンいわく「人生に必要なのは勇気と想像力と少しのお金」ということだが、私の実感は「想像力」と「それなりのお金」(けして「少し」じゃないということは力説したい)。
そして、語呂合わせのために3つとするなら「バランス感覚」だと思っている。

ずっとずっと「割り切らない」で生きてきた。
白黒つけずに曖昧にすることで、保ってきた人間関係や自分の心。
純白と漆黒の間に無数にあるグレーゾーンをすべて受け入れて、胸のシーソーのどこに重心を置けばバランスがとれるかと常に想像した。
正義は人の数だけあるのだと自分を納得させて、歩み寄る「ふり」を重ねた。

もういいかなと思ったのは、コロナと交通事故で「明日死ぬかもしれない」と実感してから。
アクシデントがなかったとしても、人生の残り時間はそう長くない。

不快なことを避けたいのは当たり前だけれど、「不快なことになるかもしれない」という微妙な「違和感」も、リスクマネジメントのはしっこに入れた。
波乱の多い人生をせっかくここまで生き延びて、ようやく得た穏やかな暮らし。
それを損なう可能性のあるものは、先に回避する。
それはまったくの取り越し苦労かもしれない。
友達からは「考えすぎ」とよく言われる。
でも。
けして考えすぎではなく、むしろ直感的なものだと自分では思っている。

中学を卒業してすぐに始めた一人旅では、よくヒッチハイクをした。
お金がないというのもあるけれど、歩くことをさほど苦にせず、公共交通機関のないところも、結構行く気になった。
それで、歩いていると、ときどき止まってくれる車がある。

乗るか乗らぬか。
五感を研ぎ澄まして、最大限の観察力を発揮する。
情報を収集して「乗っても大丈夫か」を瞬時に判断する。
最後は野生のカンだ。

幸運なことに、危ない目に遭ったことはない。
ただ、微妙な「違和感」によって乗らなかったことはある。
見知らぬ人の親切に感謝しつつ丁寧にお断りしたあと、「やっぱり乗せてもらえば良かったかな」と思ったこともある。

選ばなかった道の果ては誰にも見えない。
そして私はこういう「違和感」を大事にしたいと、いまは思う。

慎重といえば聞こえはいいが、単に臆病になっただけかもしれない。
あるいは長年の「曖昧」に疲れたのか。
ああでもない、こうでもない、そうかもしれないといろいろ想像して、自分の心の落ち着きどころを探ることが面倒になったのだ。
「なんのこと?」とか「どういう意味?」とか考えたくない。
当たりか外れかなんて関係ない。

もうシーソーじゃなくて、揺れない地面に座りたい。
シーソーか地面かの判断は、自分でしたい。
自分の野生のカンで。

だから、ここにはわりと明確に、嫌いなことは「嫌い」と書いている。
嫌いが一致したら嬉しいけれど、感覚が違ってそれが「不快」または「不快未満の違和感」でも、見なければ済む話。
読まれる方々にもそうしてほしい。
それがネットの良さなのだから、無理に共感したふりなどしなくていい。
現実生活では、まだまだバランスをとることに苦悩しているのだから。

私の感覚では、テレビ番組や映画や小説など、絶賛しているものよりケチをつけている(違和感を述べている)文章のほうがずっと面白い。

宮部みゆきの「霊験お初」のシリーズが好きで、何度も読んでいる。
先日ドラマ化されて、配役がほぼほぼイメージ通りだったので期待値Maxでリアタイした。
が。

やっぱり、原作既読のもの、特に映画とか2時間ドラマとかは見ちゃならんのよなぁ。
長編を2時間にしたら、どうしてもダイジェスト版になる。
伏線も機微も滋味もあったもんじゃない。
なんだか竜巻に襲われた感じ。


読んでいただきありがとうございますm(__)m