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今の時点では

illustrated by スミタ2024 @good_god_gold

 不動産屋だという目の前の二人は、きちんとしたスーツに身を包んでいるものの、どこか胡散臭い雰囲気を纏っていた。若いほうは二十代後半だろうか。妙に口元がだらしなく開いていてニヤニヤしている印象を受ける。もう一人は五十過ぎだろう。ときおり見せる目つきがやけに鋭く妙な威圧感があった。
 客間の応接テーブルに置かれた何枚もの書類にじっくり目を通してから、井塚は二人に首を傾げて見せた。
「本当にあれを?」
「ええ。ぜひ」
 ニヤニヤ男が答える。
 井塚が持っている土地を買いたいというのだ。親から受け継いだ山林はシノブ山脈の奥にあって、これといった使い道はなく、この先も何かに使えるとは思えなかった。毎年ただ固定資産税を納めているだけで、正直に言えば持て余している。
「うーん」
 井塚は腕を組んだ。
「あれは親から受け継いだモノでして」
 そう言いながらも、内心ではほくそ笑んでいた。これは願ったり叶ったりではないか。亡くなった親には申しわけないが、たとえ僅かでも金に換えられるのなら、そのほうが良いに決まっている。
「ええ、それはもう充分に承知しております」
 ニヤニヤ男は足元のバッグを手元に引き寄せてファスナーを解くと、床の上で半分ほど開いた。チラリと中に目をやった井塚の心臓がドクンと早鐘を打つ。バッグには札束がぎっしりと詰まっていた。金額にすればいくらなのか。想像もつかない。
「ですから」
 パシ。パシ。
 音を立てて札束が二つ置かれた。
「これで」
 井塚はゴクリと唾を飲んだ。この札束一つの十分の一もあれば充分だった。これまで納めてきた固定資産税をまるごと回収して、さらにお釣りがくる。それが二つもある。腹の奥が冷たくなった。腰が抜けたのだ。
 井塚が黙っているのを拒否だと勘違いしたのか、ニヤニヤ男はさらにその上に札束を二つ置いた。そして、さらに置く。
「これではどうでしょうか」
 さらにいくつかの札束を置いてから、ニヤニヤ男は聞いた。
「え?」
 井塚の背中にゾクゾクと電気が流れた。頭の中で素早く算盤をはじく。いったいあの山にどれだけの価値があるのかはわからないが、少なくとも彼らはあのバッグ一杯の札束を用意してきているのだ。つまり、そこまでは出せると言うことだ。だったら。
「親というか、先祖代々なんですよね」
 井塚は肩をすくめて見せた。
「そうなんですか」
 ニヤニヤ男の顔からニヤニヤ笑いが消えた。やや緊張した面持ちに変わった若者はバッグの中へ目をやり、しばらく黙った。それから中へ手を差し入れた。
 パシ。パシ。
「どうですか」
 さらにいくつかの札束が積まれ、テーブルの上には小さな札束の山ができあがった。
「よし、と言えば、その時点でここに積んであるカネはあなたのものです」
 それまで若者の隣で黙っていた年配の男が、ふいに低いダミ声を出した。
「う、えーっと」
 胃の奥を素手で掴まれたような気がした。これ以上はダメかもしれない。だが。
「よし、ですね?」
 男が畳みかける。
「ああ、どうしよう。どうしようかな。言ったほうがいいかな」
 井塚は困ったように首を振ったが、内心では腹を決めていた。ここまで来たら度胸試しだ。そう簡単に「よし」は言わないぞ。積ませるだけ積ませてやる。
 年配者は井塚の表情をじっと見ていたが、やがて鼻から長い息を吐いた。
 ニヤニヤの若者が年配者にちらと目配せをする。年配者が大きく頷いた。
「わかりました」
 ニヤニヤ笑いの消えたニヤニヤ男は意を決したように立ち上がった。バッグを持ち上げると逆さにして、中に残っていた札束を総てテーブルの上へ落とす。ガサガサッと音を立てて、先ほどまで積み上がっていた札束の山が崩れた。
「何とかあの山をお譲りいただきたい」
 空になったバッグを床に置き、若者が深々と頭を下げた。
「なあ、井塚さん」
 ねっとりとしたダミ声が絡んできた。
「あまり粘らずに、よし、と言えませんかね。言えばその時点でここに積んであるカネはあんたのものなんだよ」
「その時点のね。ええ、ええ、そうでしょうとも」
 井塚は何度か頷いてから、年配男の目をまっすぐに見た。
「よし」
「おお」
 年配男の顔にサッと赤みが差す。
「と、言いたいところですが、やっぱり売れないな」
「売っていただけない?」
 井塚はペロリと舌を出して口の周りを舐めた。目の端に、彼らの持ってきたもう一つのバッグが映っていた。まだある。おそらくあの中に、まだあるのだ。
 テーブルの上に積まれただけでも信じられないほどの金額だった。今の時点で、すでに一生遊び暮らせるほどのカネを手にできるのだ。だが、今ならもっと増やせる。
 そのバッグを年配男が顎で差した。若者が手元に引き寄せてファスナーを解く。
 やっぱりそうだ。井塚の口元が緩んだ。思った通り、もう一つのバッグにも札束がぎっしりと詰まっている。
 いったい俺はどれだけの金持ちになるんだ。井塚の体温がカッと上がる。
「そうですねえ。売るのはちょっと難しいですねぇ」
「売っていただけない?」
「そうですね。ええ、今の時点ではやっぱり売れませんね」
「そうですか。それはとても残念です」
「まあ、今の時点では、ですけどね」
 井塚は媚びるような目で年配男をじっとりと見た。
「なるほど。今の時点では売れない。それじゃ、井塚さん」
 年配男はテーブルに半身を乗り出し、ギロリと井塚の目を覗き込んだ。鋭いが、まったく感情のない爬虫類の目だった。
「これでどうですか」
 男はテーブルの上から札束を二つ手に取ると、空になっていたバッグの中へ投げ込んだ。
「え?」
 戸惑う井塚をチラリと見やってから、さらに札束を二つ取って、バッグの中へ投げ入れる。
「ちょっと、何してるんですか」
 井塚の質問には答えず、男は若者に向かって頷いた。
「一、二」
 若者は声に出して数を数えてから札束を両手で掴み、バッグの中へ投げ入れた。
「一、二」
 また投げ込む。
「一、二」
 最後に若者がバッグから振り落とした札束はすべて元のバッグへ戻り、さらに崩れた山の端が消え始めた。
「ちょっと、ちょっと待ってください」
 井塚が大声を出すと、年配男は口の端をひょいと曲げたが、何も言わなかった。
「一、二」
 若者は淡々と札束をバッグの中へ投げ入れ続けている。
「どういうことなんですか、説明してください」
「だからさっき言っただろ。よし、と言えばその時点でここに積んであるカネはあんたのものだって」
「一、二」
「ええ、聞きましたよ」
「だけどあんたは、よし、と言わない」
「だから、それはまだ考えているからだろ」
 そう言って井塚は目を剥いた。
「一、二」
「なので、オレたちは二秒ごとに札束を二つ回収することにしたんだ」
「だってそっちのバッグにもまだ入っているじゃないか、ほら」
 井塚は札束がぎっしりと詰まっているバッグを指差した。
「一、二」
 札束の山がみるみるうちに小さくなっていく。
「こっちのバッグに何が入っているかは、あんたの知ったことじゃない」
 年配男はニヤリと笑った。
「さては欺したな」
「一、二」
「欺すも何も、あんたはあの山を売らないんだろ」
「え、いや」
 しどろもどろになる。
「一、二」
「だったらオレたちはカネを回収して帰るだけだ」
「そんなのおかしいじゃないか」
 テーブルの上の札束の山は三分の一ほどになっている。井塚の額に汗がどっと噴き出す。俺のカネが。俺のものになるはずのカネが。
「一、二」
「井塚さん、あんた何を言ってるんだ。売ってくれないのにカネを渡せるわけがないだろ」
「でも、これはもう俺のカネだ。俺のカネだろ。だってそうじゃないか。あなたたちだって、あれだけは出すつもりだったんだろ」
「一、二」
 ずいぶんと札束は残り少なくなっている。
「あんたのカネじゃない」
「なんでだよ。少なくともさっきテーブルに乗せたぶんは俺のものだろ。もうあれ以上くれとは言わないから。あれだけでいいから」
「一、二」
「ふん。あんたのカネにするには、ひとこと必要だって言っただろ」
 年配男は鼻で笑った。
「一、二」
 もう札束はほとんど残っていない。井塚の顔が引き攣った。目が血走る。
「よし!」
 男に向かって叫んだ。
「よし!」
 若者に向かって叫んだ。
「よしッ! よしッ! よしッ! よしぃぃぃぃぃ!」
 立ち上がって絶叫した。
 若者の動きがぴたりと止まった。
「さて、今の時点では、と」
 年配男がゆっくりと視線を動かし、釣られてテーブルへ目をやった井塚は、そのままヘタヘタと椅子へ崩れ落ちた。うつろな目をして口が半分開いている。
「なるほど」
 男は爬虫類の目を井塚に向け直し、どっしりと椅子に深く座り直した。
「それじゃ、こちらへハンコをお願いします」
 顔中にニヤニヤ笑いを張りつけた若者が、残った二つの札束を避けるように、テーブルの上に一枚の書類を滑らせた。

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