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SNSが数少ない時代


SNS

2007年の交通事故が起こった当時はFacebookもXもなく、mixiを主に使っていた。その後、目撃者探しでヤフーブログを始め、アメブロを始めたのは事故から3ヶ月が経過してからだ。

mixi

mixiはアカウントを使い分けていた。学業専用のものと交通事故の目撃者を募るものを。交通事故の目撃者を募っていたカウントはアクセスできなくなっていた。

事故翌日のmixiより

加害者が家族と偽って呼び出した日

事故から4日目の日記_事故当日の加害者夫婦についてふれている
当時の詳細は以下


看護師が加害者が面会にと私に声を掛けたときは面会を断っている。(詳細はアメブロで)とても会える心境ではない。すると二回目。「家族のものですが」と面会者が来ていますと言われ、ICUを飛び出した。しかしそこに立っていたのは。加害者夫婦と市職員互助会の団体扱保険の人間。騙されたと瞬時に感じた。ここまでして見舞いにきた誠意を見せた事実を作りに来たのかと。

私はここで激高してはならないと自分を抑えた。父を不利な立場に私がしてはならないと考えたからだ。市職員互助会の団体扱保険の質問にも全て答えた。馬鹿だった。世間知らずだった。相手はこちらの家族構成など必要な情報を探るだけ探って、恫喝という常套手段でいけると思ったに違いない。しかし、私も若かった。泣き寝入りは絶対にしない。どれだけ怒鳴られ、泣かされようが、絶対に諦めない。絶対に引かない。こんな弱い者いじめには屈しない。そのためだろう。保険会社の中での風の噂で出方を間違ったという話を数ヶ月後耳にすることになる。

mixiでみつけた目撃者

当時私はmixiのコミュニティで目撃者捜しをしていた。その当時の記録はもうなかった。区のコミュニティが2009年に変わっているところをみるとそれ以前のトピックは失われたのだろう。これらの記録は全てPDFにして読売新聞の記者に渡してある。彼も被害者に加担しすぎるという理由で子会社に飛ばされてしまった。(東京の方なのに名古屋まで自費で来て下さり、交通事故現場も確認し、加害者宅や加害者と同じ町内の協力公務員宅、地元の喫茶店など突撃取材をして下さっている。最近連絡をとったのは2年前。卒論のためのアンケート調査に協力して頂いた。)

交通事故に裁判の記録

正直、事故の記録は山ほどある。大型のスーツケース3つ分に封印している。それ以外の資料も、もう見たくないと追いやってしまっている。事故現場の渋滞車両が起きる様子も3ヶ月毎朝同じ時刻に記録した。音声・映像・SNSと素人ながらにも記録をし続けていた。まさかまた掘り起こそうとする時期が来るとは自分でも思いもつかなかった。

だが、適切な医療や福祉を受けるには、こうした歴史を公開しないと、いくらこちらが気を付けていても限界がある。きっと彼らはここまでの事故だとは想像すらしていないだろう。記録を掘り起こすことは自分の傷をえぐるような作業だ。裁判が終息し、裁判のない生活に慣れるまでに2年の月日を要した私がまとめ上げられることが果たしてできるか疑問だ。