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Accomodation 許容する力

◆思いやりの発見

ヴィナヤ(「謙虚」という価値)。 「足りない」「もっともっと」という欲する意識でなく、漠然としてても「私の身体も、何かをする機会も、与えられたもの」という理解があれば、謙虚さが生まれる。だから、イーシュワラへの理解は、謙虚さとそこから生まれる思いやりに繋がる。=人間としての成長。イーシュワラを通して、世界を、物事を、客観的に観る。

◆だれしもが罪悪感を持っている

秩序のなかで「そうせざるを得なかった」という理解が、自分にも相手にも思いやりを生む。自分の背景・相手の背景を知る。主観的な見方に客観性をもたせる。主観は狂気、客観は正気。

◆境界線の引き方

アヒムサーは、手放す・傷つけない という文化。ガンジーの提唱は、アヒムサーと合致した。外側は外側、内側は内側、として、外側を内側に持ち込まない。境界線を引くには、価値についての理解が首尾一貫している必要がある。境界線をどう引くか、の練習。境界線を引くことが、アヒムサーの練習。境界線は、自分を護るためであり、相手に対しての思いやりでもある(伝わりにくい場合もあるけども)。相手を変えようとするから無理がある。相手が変わろうとしないかぎりは。私にできるのは、外側に「その人を受け入れるスペース」をつくること。あくまで外側に留めておくことが重要。抱え込まない、内側に入れない。変えようとせず、本人が気づくよう変わるように祈ることだけ。

◆外側に置くには、私自身に「理解」が必要

自分以外の人はすべて「外側」。好きな人も外側。好きになりたいけど好きになれない人も外側。「好きになりたいけど好きになれない」は、「好きになれない」ということであり、内側に入れてしまっているということ。それを抱え込まないように、外に荷下ろしする練習。そのためには、「理解」が必要。
「私の見方は、間違っているかもしれない」という理解が、自由をつくる。
理解が無いから、相手を自由にさせられなくて、実質は、私がその人にしがみ付いている。「私は、あなたにこうなってほしい。こうしてほしい。こう変わってほしい」という考え方がそれ。誤解にも背景があって、誤解自体は悪いことではない。「私の見方は、間違っているかもしれない」という理解が、自分にも相手に対しても、客観性というゆとりを与える。日常は、いろんな出来事に対して如何に客観性をもてるか、それによって距離をもてるか、という練習。難しい。。


◆千春の話から「境界線」を考える

国と国の、領土としても文化としても境界線になるのが、国境。想起されるのは、ウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナ。お互いに自らの見方で相手を見るから、自分も相手も自由にならない。千春曰く、「ともかくまずは銃を置け。停戦。和平交渉。まずは停戦・休戦を」と、ウクライナ侵攻が始まった当初から言い続けている。

国連をもってしてもそれすら叶わないまま数年。仮に休戦して話し合いのテーブルについても、これまでの歴史を考えると、相手への理解が出来るとは限らない。それでも、双方に犠牲が出続けていることをふまえれば、一旦境界線(休戦)すべきなのにそれすらもできない。まさに主観性という名の狂気であって、世界情勢が好転しないまま2023年が閉じようとしている。。

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