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ジャパ瞑想① 思考の手綱を持つ手段

瞑想、特にジャパ瞑想について。端的には、短い言葉を繰り返す方法。ただ、「繰り返す」意味と目的を理解することが必要で、それを学ぶ機会をいただいた。無自覚に絶えず溢れ出る思考に対して、自分が「そうなってる」と気づく、そして思考の手綱を持つ手段であるということ。

◆伝統的な瞑想の定義

グナ(=質)をもつブラフマン=すべての源・作者であるイーシュワラ
イーシュワラを想うこと=瞑想
瞑想には2つのステップがある。

①個人が、全体=イーシュワラを想う
(波はちっぽけと思ってるけど、波も海(全体)と一緒)
②ヴェーダーンタの結論(私=イーシュワラという理解)→モークシャ

◆ジャパ瞑想の偉大さ

①と②はイーシュワラを学んでなくても出来る瞑想。もちろん学んでいても出来る

◆祈るという行いの3つのレベル

①体を使う(お祈りではプージャ)
②言葉を使う(チャンティングとか)
③考えを使う(瞑想)

③については、自動的に浮かぶ・ポップアップしてくる考えは該当しない(過去の経験から生じるもの)(言葉からイメージが浮かぶというレベルのもの)。行い・祈りを通してイーシュワラを生活に取り入れていくのが、ヨーギー。

◆ジャパ瞑想

『ジャパは、瞑想の間中ずっと一つの言葉や短い文章を反復することです。「Ja」は生死のサイクルを終わらせることを意味し、「Pa」は全ての妨げや汚れを除くことや破壊することを意味します。ですからジャパは、モークシャと呼ばれる自由のための間接的な道具です。知識に対する様々な障害を破壊し、自由への道を整えます。その時ジャパ瞑想は、単なるテクニックや訓練以上のものになります。』(スワミ ダヤーナンダジ)

「足りてない、満たされない」を行いで満たそうとして一時的に満たされてもまた繰り返していくサムサーラ。そのパーパを破壊する。個人の主観→客観に整えていく。繰り返し唱える意味は、ヴェーダーンタを勉強することで発見できる。考えを綺麗にするために、行いという手法を用いる。

【第一話】
◆予測不能な思考

私たちの思考は、予測不能だし移り変わっていくけど、なにがしかの背景があり連鎖・繋がりはある。 例)話が盛り上がると、「あれなんの話だっけ」になる感じ
まるで、オイルや蜂蜜のようになめらかに流れていくイメージ。見てるものと思考とも一致しない。自動で進んでいく連想ゲームのよう。意図のない考えは、方向性は無いけど繋がりはある。ただし、次に何が来るかわからない。
一方、ジャパ瞑想は、次に何が来るかが決まっている。同じ短いフレーズを繰り返す。次にくることがわかるし、そこから反れたこともすぐわかる。自分の思考の動きに意識的になれる。ジャパ瞑想してて違うことを考えたらすぐわかるようになる。日常でも、「あ、違う思考がポップアップしてるな」と気づけるようになる。通常、思考と自分を一体化してて無自覚なので、両者に距離をとることができる。

◆考えについて学ぶこと

思考について学ぶ方法を持っていない。自分が思考の手綱をもつ・考えをツールとして使う方法としてのジャパ瞑想。考えの主導権を持つ練習。思考は、過去の記憶から生まれる。いま目の前にあるものそのものではなくて、過去の経験・知識というレンズを通して観てしまっている。過去にひっぱられないようにする練習でもある。

◆テクニックとしてのジャパ

一回一回選ぶ大切さ。ジャパは次の言葉決まっている。その言葉を選んでいる。だからその最中に別の思考がポップアップしてきたら、選んだ考え=マントラに引き戻す。単に繰り返すだけでなく、他のものが現れたら、手放しそうになった選択をもういちど引き戻す。自分の考えを観察する機会。考えの手綱をもつ技術。

◆考えと考えのあいだにある隙間

繰り返すことで、2つの異なる考えのあいだを認識できる。ふだんの無意識に連なっていく思考には隙間が無いけど、ジャパ瞑想では、ひとつの短いチャンティングとその次のチャンティングに繋がりが無いから、スペースが生まれる。「、」ではなく「。」。単に続けるだけではなく、自分の意思を使って、ひとつひとつを選んでいて、ひとつひとつだから隙間がある。

◆考えの平静さ

「何かを得れば、心が平安になる」と考えがちで何かを手に入れようとする。新しいもので、自分を、考えを美しく飾ろうとする。気づかぬうちに、思考がどんどん浮かんで混み入って、レンガが重なるかのように高い壁が築かれてしまう。それが当たり前になってしまっている。さらに、思考や感情と、自分が一体化してしまう。考えと私の間には、本来スペースがあって別物なのに同化してしまっている。考え全体の癖が、自動的に組み合わさってしまう。


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