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​ムーサ異装展覧界 鑑賞レポート『「Utopiumに死す」における欠陥、あるいは読者への強制』


​ムーサ異装展覧界 鑑賞レポート
鑑賞作品名「Utopiumに死す」


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本レポートは「ムーサ異装展覧界」に出展された作品「Utoiumに死す」に対する批判的読解を示すものである。

最初に、シナリオ「Utopiumに死す」のあらすじを完結に述べる。このシナリオは5万字を超えるため、全貌の把握が困難である。そのため、概要を記述することは鑑賞への第一歩となるだろう。なお、本稿には、当該作品の展開や結末についての直接的な言及が含まれている。


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あらすじ


本シナリオおけるプロタゴニスト(2名)は、自身が「肖像画」であると思い込まされている。この「肖像画」とは客体性の比喩的表現だ。すなわち、プロタゴニストは「まなざされるもの」や「愛されるもの」といった目的語的な存在であるという設定がなされている。シナリオでは、異次元にある屋敷におけるNPCとの交流、夢の描写による不安の喚起がなされたのち、ムービーシーンを経て、2名のプロタゴニストは、自身が客体的な「肖像画」ではなく、まなざす主体であったことをそれぞれに思い出す。そして、まなざす主体(PC1の場合は「人間」、PC2の場合は「神話生物アドゥムブラリ」)として生きるか、まなざされる客体として屋敷に残るかの選択が迫られる。その後、それらの選択に応じた戦闘や描写、判定が行われ、シナリオは終了する。

(シナリオ本文では、「見る、見られる」という表現が用いられているが、本レポートは美術作品の鑑賞レポートであるため、美術や哲学といった分野で用いられる術語である「まなざし(Gaze)がより適当であると筆者は判断した)。


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この作品が批判に値すると筆者が考える第一の理由は、本作品における「人間」に対する洞察の欠落である。

このシナリオの主題(「まなざす/まなざされる」)において、「人間」は、主体性を持つ存在という以上の意味を持たない。これは大きな認識の欠落であろう。人間とは、本来、まなざす主体であると同時に、まなざされる客体でもあるからだ。

確かに、絵画鑑賞という行為に限定すれば、人間がまなざす主体であり、絵画がまなざされる客体であることは大筋で合意がとれるところだろう。絵画鑑賞における「まなざす/まなざされる」に場面を限定すればこのような設定は可能になる。しかし、人間であればすべての場面に置いて主体であるだろうか。否、そのようなことはない。人間は、まなざし、そして同時にまなざされるものだ。人間が社会的動物であることはアリストテレスを持ち出すまでもなく明らかであり、人間はほかの人間との相互関係のなかで生きている。この中で、我々は他者をまなざし、他者にまなざされる。人間は人間同士、まなざし、まなざされるものなのだ。しかしながら、このシナリオにおける「人間」は徹底的に「見る側」としてしか描かれないのである。

「人間」に対する洞察の欠落を明らかにしたところで、そもそも「人間」への洞察の欠落よりも以前の問題として、本作品における「人間」というキーワードが定まっていないことを指摘する。

このシナリオにおいては、人間について「人間」や「人間性」という単語が示されるだけで、それに対する解説も補足も存在しない。とある場面に至っては、「ここまでの日々で十分人間性の獲得をしていると判断できるなら」という条件文が記述されているにもかかわらず、どのような行為をもって「人間性を獲得した」と判断するのかについては明らかにされていない。「人間」や「人間性」という表現に対する意味づけや理解は、この作品のなかに存在していない。すなわち、「人間」および「人間性」がどのようなものであるのかについては、作品鑑賞者すなわちキーパーおよびプレイヤーの考えに一任されている。

この瑕疵と「読者への強制」の関係性については、本稿の第三ブロックにて述べるが、その前にさらなる問題点について言及しておく必要がある。



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第二に、正規ルートの存在。任意に見せかけた分岐で特定の選択をすることを要求している。

詳しく言及しよう。シナリオ内でプロタゴニストが主体であることを選んだとしても、そのキャラクターは、それを選んでなお(プレイヤーに創造された)客体である、という隠しテーマが匂わされるルートがある。この被造物性に対する匂わせは、シナリオ本文においては漠然としか存在せず、エンドAとエンドPにおいてのみ若干の強調を受けるに留まっている。生還後のエンド報酬において、「正気度」が「あなたが人間であり、探索者である証。これを所持し続ける限り、冒涜的で愛に満ちた様々な「シナリオ」を経験し続けられる。」と言及されている部分だ。

しかし、「おわりに」のセクションにて、本作品の製作者は「探索者はPLによって制作された美術品だし、シナリオは彼らが展示される博物館だと思って作成しました。自分の意に反して鑑賞されて、解釈されて、好き勝手に愛される「理不尽さ」をちょっとでも楽しんでもらえたらいいなとおもいます。」と言及する。製作者が「楽しんでもらいたい」と言う被動作主性は、エンドAもしくはエンドPに到達した場合にのみ言及可能となるものだ。底に至るためには、任意(に見せかけられた)選択において特定の選択を行わなければならないが、そのための判断材料はシナリオ内には存在しない。そして、残りの想定されたエンドでは、プロタゴニストは「シナリオ内の被造物の設定(「美術品」)に留まることになる。

これではシナリオがエンドAもしくはPを選ぶのが「正解」であるとしているのも同義である。シナリオ内に判断材料のない「選択」にもかかわらず、特定の選択をすること(=プロタゴニストが主体たらんとする選択肢をとること)しか想定されていないのだ。

繰り返そう。隠しテーマが特定のエンディングでしか見られないことが問題なのではない。作者がシナリオ全体の「おわりに」において、特定の分岐を選択することしか想定していないと名言することが、致命的なのである。


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第三。「Utopiumに死す」は、読者へ強制を行う。

本稿の第一ブロックにて、「人間性」についての洞察が不十分であり、なおかつ「人間性」の解釈が読者に依存することを明らかにした。第二ブロックにおいては、まなざす主体/まなざされる客体を選択できる場面において「まなざす主体」を選ぶことが、シナリオ全体の構造として、一切の情報提供なしに要求されていることを問題視した。

こうした思慮の欠落は、本作品の鑑賞者がそうした判断能力をすでに有しているはずだという想定に起因するものであろうと、筆者は考える。例えば、人間という存在に対する知識が漠然とあること。例えば、人間性とはなにかについて解説されなくても分かっていること。そして、まなざされる被動作主よりも、まなざす動作主のほうが選ばれることを、本作品は要求している。「人間」「人間性」を「よいもの」として捉え、客体ではなく「主体」であるほうを選べと、本作品は要請する。そういう構造になっている。キャラクターやプレイヤーに対して説明することも、作中内で描写をすることもなく、それでいながら特定の人間観を求めているのだ。

本作品は、読者が特定の価値観を有しなおかつそれを自明視していることを前提に執筆されている。換言すれば、特定の価値観を有していることを、読者という他人にも要求している作品である。非難めいた表現するのであれば、「自分が当たり前だと思っている価値観を、他人にも強要している」とも言えよう。ただし、これは作者の意思や意図についての推測ではない。本レポートの筆者は、属人的な作品批評を好まない。本稿は、公共性を持つ作品についての鑑賞レポートであり、作者分析ではないのである。

本稿は、シナリオ「Utopiumに死す」が、価値観の多様な可能性を黙殺し、特定の価値観を強要することを批判的に明らかにした。すなわち、本レポートを締めくくる表現は、以下のようになる。



――「Utopiumに死す」における欠陥は、読者への強制である。




2021/05/21
安見瑛

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