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還暦、退職、富士山登頂2

 八号目白雲荘での夜。予想通り、ほとんど眠ることはできず、時計は午前0時を過ぎた。隣のおじさんはしっかり寝ているようだ。初心者とベテランの違いがここで出た。恨み言を言うつもりはなく、おかげで早く出発できますと、逆に感謝の気持ちで、床を出た。
 広間では、すでに出発の準備に励むツアー客がおおぜい。この人たちと行動を共にすれば安心かなと、ちょっとホッとする。
 

ライトで道を照らし一歩一歩進む

 山小屋から受け取った朝食を少し食べて、いざ出発。外は冬のような寒さ。ツアー客は、この瞬間の寒さでダウン着たり、たくさん重ね着したりしていたが、自分は昨日の大阪婦人のアドバイスを忠実に守り、ちょっと薄いかなと思うくらいのものに。これは大成功。歩いていると暑くなる。快適に登ることができた。
 歩き始めてやはり思うのが、なんでこんなことやろうと思ったのかなぁ、というちょっとした後悔。寝不足だし、息は苦しいし、足は上がらないし。この寒空の暗い中、俺はなんでこんなにしんどい思いをして歩いてるんだ?
 それでも休み休み頂上へ向かって行く。早めに出たから、ゆっくり行っても余裕がある。そう思うと、いびきのおじさんも大阪婦人も恩人のように思えてくる。
 暗い中で歩くので、先がどうなっているのかはわからない。ひたすらにヘッドライトに照らされる道を進んでいく。
 ふと、空を見上げてみる。空には満天の星。星座がよく見える。頂上に向かう自分が、その星座に向かって歩を進めているような気分になった。ここ数年感じたことのないようなロマンチックな気分に浸ることができて、ちょっと力が湧いてきた。星座に向かって登って行く、あの感じ。きっと忘れないと思う。

麓はまだ寝ている時間

 もう結構上まで上がってきたはずだが…。そう思って先を見ると鳥居の影が見えた。あれ、確かYouTubeで見た、頂上のちょっと手前にあったやつじゃないか?ということは…。よし、もうひと踏ん張りと元気が湧いてきた。日の出までまだまだあるし、なんだかホッとして、文字通り肩の荷が少し軽くなったような。
 あ、狛犬だ!鳥居だ!全部YouTubeで見た頂上にあるやつー、ってことは、ついに富士山の頂上にたどり着いたということか。途中、何度も後悔の気持ちが湧いてきたけれども、この時のために我慢してきたんだなぁ。体調も経験値の低さも、いろんな心配はあったけど、実行を決断して、来てよかったなぁ。
 まだ、あたりは真っ暗だけど、山頂に着いた喜びは、自分だけでなく、外にいるみんなから伝わってくる。年齢も、国もバラバラだけど、同じ喜びを感じている、妙な仲間意識を勝手に感じていた。

お店の前も賑やか

 さて、ホッとしたのも束の間。真冬のような寒さと強風に気が付く。ここで満を持して、重い思いをして背負ってきたダウン、フリース、レインウェアを重ね着する。なんとか寒さを凌いではいるものの、それでもまだ寒い。周りの外国人はあの薄着で寒くないのか!?同じ人間でもずいぶん違うんだなぁなどと考えているうちに、空が少しずつ明るくなってきた。

ご来光、拝むことができた

 日の出の時間。雲は出ていたものの、隙間からしっかり拝むことができた。明るくなったら、写真撮って下山しよう。待てよ、お鉢巡りなどというものがあったような。もう二度と来ないだろうから、ついでにやってから下りようかな。この判断は…。

還暦祝いのウェアとバックパックで記念撮影

 写真も撮れたし、さて行くか。時間にも余裕をもって登ってきたし、天気はいいからお鉢巡りしてから下りよう。お鉢巡りを始めて、5分後。想定外の強風とアップダウンに、早くも後悔。特に風は、飛ばされたら転落、命はないという恐怖。そう言えば、あの大阪婦人も、お鉢巡りはかなりの体力を費やして、登頂よりもそっちで具合悪くなったと忠告してくれていた。それが今わかった気がする。とにかく、強風で体の姿勢を保つのに必死、砂嵐で顔が痛い。剣ヶ峰付近の急勾配にヘトヘト。引き返すわけにもいかないし。でも、もうここに来ることはないんだからと自分を納得させつつ、何とか一周して元の売店前に。周りでも、風で飛ばされて死ぬかと思ったと恐怖を語る人がちらほら。富士山は、頂上だけは別世界なんだなぁと実感したのだった。

剣ヶ峰付近から火口を望む 雪が残っている。

 フルコース、コンプリート。そんな言葉が頭に浮かんでいた。ここでやろうと思ったことは全部やった、思い残すことなし。ただ、登ったら下りなきゃいけない。また歩くのかぁ。
 しかし、達成感や満足感のせいか、下りは思いの外、苦しむことなくすいすいと。まだまだ空気は薄いし、休み休み水分を補給しながらではあるが、上りの苦しさを経験した身からするとずいぶんと楽に思えた。下りの方が足に来るともよく聞くし、実際麓では下りで地獄を見たと言っている若者たちがいたことも事実。
 

下るにつれて、身も心も軽やかに。

 自分の場合は、気持ちの問題が一番大きいんだなと、ここではっきりしたようだ。
 自分が登り始めた時に、上から下りてくる人たちの中には、この世の終わりのような顔でふらふらしながら戻ってくる人が少なからずいたのだが、自分はきっとうれしそうに下りてくる人になっていたんじゃないかな。痩せ我慢じゃなくてね。

あんなところから下りてきたんだねぇ。

 スバルライン五合目に着いたのは、前日の登り始めた時間からおよそ丸1日経った頃。何か表現しようのないうれしさと感動で思わず顔が緩んでしまっていた。何度も途中で後悔するようなことをやってしまった自分の無謀さと馬鹿馬鹿しさも、そうは言いつつ何とかやってのけた思った以上に根性出した自分も、何だかちょっと笑えてきてしまって。

↖️写真撮りながらニヤついている自分がここにいる

 還暦、退職、再就職。この1年いろんな節目を通ってきたが、これも自分が自分で設定した最大の行動目標であり、セカンドライフ序盤の節目に位置付けたイベントだと思う。
 15年余りランニングを続けて、ハーフ・フルマラソンの大会に参加していたことも、再就職を肉体労働にしたことも、全部今回の役に立ってくれたのかもしれない。日々の暮らしの中で、先につながらないことなんかないんだな。どこかで自分の力になるのだと、これからの暮らしでもプラス思考で進んでいけそうな、そんないい経験ができた。この歳になっても、そういうことがあるんだなぁ。これからもあるかもしれないなと。
 下山後の楽しみは温泉とグルメ。富士山を望む露天風呂の後の信玄餅ソフトは絶品だった。
 

幸せって、こんな味なんだな

 やっぱりいつも通りだが、やってよかった、やらなきゃ味わえないことがある。思いついたら、まず動こう!そんなモットーの正しさをさらに強く実感した2日間となった。
 でも、もう富士山には二度と登らないでしょう。これから行く人、舐めてかかってはいけませんよ。本当にしんどかった。

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