駄文はひとまず冷蔵庫へ

朝起きて温かいお茶が飲みたくなったので戸棚から粉茶を出した。ジップロックを開けると、粉茶は本来の黄緑色など見る影もなく、茶色くて酸っぱい匂いの漂う粉と化していた。どうやら腐らせたらしい。粉茶は永久に腐らないと思っていた。これだけの量を朝っぱらからゴミ袋に捨てる罪悪感の重みにどうにも耐えられず、とりあえず冷蔵庫に入れた。冷蔵庫に入れれば腐った食べ物も元通りになるような気がしたからだ。そして水道水で我慢することにした。このグラス、普段水道水を飲むのにしか使わないから洗うタイミングが分からない。
朝は納豆ご飯にした。納豆のタレの袋を見ると、「あなたはここからどこへでも行けます」と書いてあった。こちら側のどこからでも切れますって書いてあっても切れた試しなんかないんだから、どこへでも行けるはずなんかないと、そのときはすぐに諦めがついた。さっさと食べてゴミも食器も流しに置いて、申し訳程度の水に浸す。水道水を飲んだグラスもそこに入れとけば帰ってきた自分が洗うだろう。

今日は月曜日だから外に出るのは丸2日ぶりだ。基本は外へ出たくない。だからといって別に家が好きなわけでもない。外へ出ると、自分は大概の人間のことをうっすら嫌っていることが明らかになってしまうからだ。土日に家を出ないことで残りの人生は騙し騙しやっていこう、そう思っている。

駅に着いたらちょうど電車が来た。入ったらちょうど目の前に1人分スペースが空いていたのでそこに座ろう、そう思った瞬間、その席の隣に座っている女子高生のことが気にかかった。彼女はいつも、この次の駅で乗ってくる友達と隣同士で座れるように、2席空いている場所を見つけて座っていることに、僕は何となく気づいていたのだ。僕は扉付近にUターンして、手すりにもたれかかってやり過ごすことにした。僕がそんな気を遣っていることを彼女は気づいてもいないだろう。おそらく「変な動きをする人だ」としか思っていないんだろう。明日からは絶対この乗車位置からは乗らない。

電車の中では夢を見た。「あなたは顔のこの位置に、ほくろをつけた方がいいですよ」と誰か知らない人に言われる。「はい、そうですか」と、僕は誰にも相談せずに顔にほくろをつける。そうやって自分はいつか誰にも気づかれないまま全くの別人になっていく。でも外を出歩いても誰も僕が別人になったことなんて気づきやしない。だって元の僕のことなんか誰も知らないんだから。

目を覚ますと、会社の最寄りの一駅前だった。仕方なくスマホを開くと、高校時代の友人から通知が一件。

《今日の一句。「ま」と打って 「マジックミラー」と 出るスマホ》

返信に迷ってとりあえず既読だけ付けた。そのとき、何となくだけど、その人の持つセンスとか知識とかは、人にひけらかしたらその分減っていくシステムにしたらいいと思った。そうすれば人はもっと謙虚になるし、人に何かを伝えるというのはそれくらいの覚悟をもってするべきだと思ったからだ。返信は家に帰るまでに考えておくことにする。

駅を出てすぐ目の前の通りは、毎朝車通りが多い。それほど広い道でもないくせに、信号が変わった。歩行者がいなくなった。となると我先にと車たちはスピードを上げる。荒い運転をしている車はいつか事故って痛い目見ろ、とか思う一方で、実際に事故に遭ったらいろいろ大変だろうし可哀相だと思ってしまう気がする。

勤務時間はいつにもまして普通に、いたって普通に進んだ。会社ではあまり怒られたことがない。というか久しく人に怒られていない気がする。学生時代一度怒られたときに、「これをすると怒られるし面倒くさいから、次からしないようにしよう」と「これをすると相手に迷惑がかかるから次からしないようにしよう」の違いについてずっと考えていたのだけれど、あまり怒られなくなってからはそれも考えなくなった。
たぶん、多少自分が変な挙動をしても、周りの人は、「この人は賢さと引き換えに、真っ当さを犠牲にしてきたに違いない…」とか思ってくれてるんだろう、だからあまり怒られないんだと思う。勉強して賢くなっておいてよかった。別に賢くなくても自分はこんな人間だから真っ当ではなかったに違いないが、そう思ってもらえているならば都合がいい。一回だけ、会議のプレゼンの前に、先輩から「緊張してる?」って声をかけられて、「AVの導入かよ」って言いそうになったときは本当にコイツは真っ当じゃないなって思った。でもまだ自分にも分別はある。こういうとき、自分がこの空間で普通に他の人と同じように仕事をしていることは無性に興奮する。

仕事が終わり、家に着いた。返信も考えついてなければ朝ごはんの食器も洗っていないし、他にもいろんなことが頭の中で渦巻いている。
高校生の頃までは「もやもや」で片づけられたのに、大学で文学部に入ってしまってからは、その「もやもや」がすべて言語化されて頭の中で滞留するようになってしまった。言語化された瞬間、それはただの気分の不調ではなく、思考の対象となってしまう。あらゆる物事を思考することは人間的に健やかではあるけれど、しかしそれは社会的な健やかさと必ずしもイコールではない。

ただだらだらと何もしないまま夜は更けていく。

「待ってたって誰も来ないよ」

と言われた気がした。そんなことは分かってるし、平日なんかただ早く終われとしか思っていないけど、ただ終わっていくのも虚無なので、先延ばしにしているのだ。

冷蔵庫の中の腐った粉茶も処分しなければ。冷蔵庫に入れたら元通り、になんてなるわけねえだろうが。だったら自分の腐った心をとっくに冷蔵庫に入れてるよ。

#小説 #短編

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