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「答え合わせはまた明日」の答え合わせ


「答え合わせはまた明日」
(https://note.com/absent719/n/nb189529b32c4/2020年1月2日20:58投稿)は下記の実験の下書かれたものである。

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【実験テーマ】
小説を書く際、直前に読んだ本に影響を受けるのか

【実験の流れ】
1. 提示された本を読む
2. 読み終わったタイミングで、何の本を読んだか知らない第3者から創作テーマを提示してもらう
3. 一旦読んだ本のことからは離れて、提示されたテーマに沿って小説を書く
4. 2で提示された本を再読しながら表現、技術の影響を分析する

【直前に読む本】
又吉直樹『火花』(文春文庫,2017)

【創作テーマ】
「近郊列車」

以下、自分なりの分析を報告書形式にまとめた。

***

『火花』の表現の特徴は個人的に以下の3つであると考える。

1. 会話文と地の文の混ぜ方

(以下引用)
「そうなんですね。でも、ベージュのコーデュロイパンツをあらためて見ると、やっぱり格好いいですね」と僕が言うと、中から笑い声が聞こえてきた。
「もうええわ」と神谷さんが言って、水を流す音がした。神谷さんはトイレから出てくると、ベージュのコーデュロイパンツをスーパーの袋に入れて、「持って帰れ」と言って僕に差し出した。僕がリュックにそれを詰めているうちに、神谷さんは鍋をつつき始めた。丁度そのタイミングで、流しっぱなしにしていたテレビから派手な音楽が聞こえてきた。最近人気の若手芸人達のユニットによる番組が始まったのだ。真樹さんは何も言わず、リモコンでチャンネルを変え、「〆は雑炊か乾麺どっちにする?」と明るい声で言った。神谷さんは、豆腐を口に頬張りながら「鬼まんま」と言った。(p.89)

この点については、再読した際に初めて気づいた点であり、拙作には生かせていない点である。強いて言えば、

僕が話を聞いていないことに勘づいたのか、雪夫は、まあいいけどね。とだけ付け足して、今は窓の外に目を向けている。

という一文は登場人物の台詞、仕草、感情(主人公視点からの推察)が織り交ぜられているが、基本的に自分が書いたものは、会話文は会話文として「括弧つき」改行によって展開させていた。
会話文によって物語を展開させる際、会話のすべてを括弧つき改行で表すとどうしてもテンポが悪くなる。一人称語りであれば、主人公の発言の意図なども途中入れ込まなけれならないため尚更である。この点については、今後意識的に吸収したい技術であると感じた。


2. 一人称語り・作品の軸である主人公の思考・心情の変化が直接的にではなく、「特定の人物(=神谷才蔵)をどう評価しているかによって表現するスタイル」であること。

冒頭こそ、「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた」という、山田詠美曰く「文学臭過多になるぎりぎりのところで抑えて」いる文体、村上龍曰く「『文学』へのリスペクトが感じられる」文章、宮本輝曰く「生硬な『文学的』な表現」である。(この選評において「文学」「文学的」という言葉が、「括弧つき」で表現されていることは特筆に値するがここでは詳しくは述べない。)しかしながら、そうした表現は先輩芸人神谷と出会うことによって鳴りを潜め、「主人公徳永が神谷をどう評価するか、神谷に対してどういった感情を抱くか」が描写の大半になっている。それはともすれば、奥泉光に「『僕』が奥行きを欠くせいで、叙情的な描写はあるものの、『小説』であろうとするあまり、笑芸を目指す若者たちの心情への核への掘り下げがなく、何か肝心なところが描かれていない印象」を抱かせてしまっている。
 
 又吉直樹が受けたこの評価と関係しているかは自分では判断できないが、拙作についても、改めて読み直してみて、主人公の内面がが相手(=「倉田さん」)の発言に対するリアクションに終始しており、人物描写は非常に浅いと感じた。もっと言えば、「倉田さん」がどういう人物なのか(人物像や、学生時代に抱いていた印象など)も入れるべきであった。そして、前半で登場する「雪夫」についても、「倉田さん」との関係性を設定に入れ込むなどして、ギミックだけでなく人物を生かすような物語構築を今後は考えていきたいと感じた。


3. 登場人物の会話文パートの中に「これは作者の持論では?」と思われる内容がある

(以下引用)
「新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。」(p.40)

「それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。俺の人格も人間性も否定して侵害したらいいと思うねん。きついけど、耐えるわ。俺が一番傷つくこと考え抜いて書き込んだらええねん。めっちゃ腹立つけどな。でも、ちゃんと腹立ったらなあかんとおもうねん。受け流すんじゃなくて、気持ちわかるとか子供騙しの嘘吐いて、せこい共感促して、仲間の仮面被って許されようとするんじゃなくて、誹謗中傷は誹謗中傷として正面から受けたらなあかんとおもうねん。」(p.112)

奥泉光の選評にもある、「作者が長年にわたって蓄積してきたのだろう、笑芸への思索と会話の面白さ」がこの作品の要であることは言うまでもないと思う。島田正彦もこの点について「先輩とのふざけたやり取り、第三者を間に挟んだ駆け引き、禅問答を思わせるメールの交換などは、そのままコミュニケーション論にもなっている」と評価している。
この点は、一読した際に、「このようなパートを入れても、さして邪魔にならないのか」と安心し、そうであれば積極的に入れてもいいのではないかと思った表現である。
「満員電車に乗っているときにさ、車両にいる全員がどの駅で降りるかが一目でわかったらいいなーって、思ったことない?」や、「雪夫はいつも僕の提示する話題に対して、内容でなく、その形式・所作に対してしかコメントをしてくれない。」がそれに当たる。
普段自分は、日常で考えていることを膨らませて文章に起こしているのだが、膨らませるに値しない些末な出来事などは、今後もこのように小ネタとして入れることで昇華していきたい。

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【その他、拙作に対する第3者からの単純なコメント(批評のみ)】
・まだ女の子の魅力を引き出せるはずだと思った。
・ギミックが面白いのに終わりが早く、もうちょっと長い会話パートがあっても映える気がした。
・文体が固めで纏まってる一方で、カジュアルなデスノートや鬼太郎がノイズになっている可能性がある。地名はちょうどいい現実味だが、店の名前や作品名は作品の流れを損ないかねない気がした。

【所感】
 今回は、「意識せずに小説を書いても影響を受けるのか」という実験テーマであったが、次回は「積極的に表現を吸収して小説を書いた場合自分の書く文章はどう変化するのか」というテーマでやってみたいと思ったし、その方が自分にとっても有意義ではないかと感じた。
1点、又吉直樹の『火花』について単純な感想を述べる。
神谷が徳永の髪型や服装を真似したことについて、徳永自身は「神谷さんにとっては、笑いにおける独自の発想や表現方法だけが肝心なのだ。髪型や服装の個性など全く関心がないのである」と理由づけていたが、やや説得力に欠けていると思われる。一人称視点のため、神谷の真意は徳永には分かりえないがゆえに、この点について自分であればどう解釈するかということについて少し考えてしまった。

#創作 #報告書 #又吉直樹 #火花

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