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夕焼け雲と二人

「あの…ちょっと」

スマホから顔を上げると、その女性が立っていた。

最高気温が38℃と予報が出ていた、酷暑の日。時刻は夕方6時を回っていた。
雲が出ていなければ、暑ければ暑いほど綺麗な夕焼けが楽しめる。数年前にそんな法則性を見つけた。今日は昼間から入道雲があちこちで見られて、いかにも夏らしい造形の真っ白な雲が真っ青な空によく映えていた。案の定夕方には美しく彩られた雲が西の空にも東の空にも見られた。

出先から車で戻り買い物袋を持ってまた家を出ると、自ずと湖岸に足が向いていた。

この入道雲の大きさが伝わるだろうか
藻がいっぱいの湖面は妖しげにヌラヌラして見えた

今日は特別に綺麗だなぁ。
湖面の揺らぎと共に何枚かを写真に収め、SNSに投稿し終わったちょうどその時。

冒頭の出来事が起こった。


「ここをね、…きたんですよ。そしたら…ね、(あなた)がいたので…」

はて。知り合いだっけ。マスク姿のその女性の顔を自分のメモリと照合する。去年自治会の役員してたけどその時に知り合ったのかな?いや、この方は知らないぞ。

頭の中で猛スピードの検索をする私の前で、彼女はぽつりぽつりと話す。でもどこかぎこちない。

ご婦人「あの…あっちの…あの赤い…(からきました)」
私「? ああ、そこのマンションですね。」

ご婦人が指差す方向には湖岸の道路に面したマンションの一群がある。

婦「今日は…(とてもきれい)だから、ここをね…(歩いて)きたんです」
私「そうですか。今日は夕焼けがきれいですよね。ほらあそこの雲もすごいですよね?」

ご婦人はちょっと言葉が出にくそうだった。認知症?高次脳機能障害?いろんな病名が過りつつも、自分の頭の中で相手の言葉を補いながら話をしばらく続ける。小ざっぱりとした身なりで、手提げ袋を持ち歳の頃は70代半ばといったところか。

婦「あなたは、どちらにいるの(どこにすんでるの)?」
私「この近所のマンションです」
婦「そう。…どうするの(これからどこへ行くの?)」
私「〇〇(近所のスーパー)まで買い物に行くんです」

店名へのご婦人の反応が今一つ鈍かったけど、ご婦人は財布を持っていないと言いながらも「行きましょ!」と私を誘うように歩き始めた。

私は正直戸惑った。この方はおそらくあのマンションの住人だろうけど、もしかしたらご家族が今頃探しておられるかもしれない。でもお家の連絡先も知らないし、ご家族も承知の上で出てきておられるのかもしれない。一緒に買い物に行って良いものだろうか…相手から「行きましょう」と言われたものの、途中で豹変して「こいつに連れ去られそうになった」と言われたらどうしよう。いろんな思いがぐるぐると頭の中で錯綜する。

そんな心配をしているとご婦人はやおら自己紹介を始めた。「私、田中めぐみ(仮名)と言います。あそこのx階に住んでるんですよ」と。お名前もお家もわかったから最悪そこまで送っていけばいいと思い、腹を決めて一緒に買い物に行くことにした。


道中ご婦人は、スーパーの場所がわからないようだったが、ご近所にお住まいなら誰もが知る超メジャーなスーパーなのである。言葉の出にくさと、場所の認知もちょっと弱いかも。注意力もあやしく、道路を渡るにも車が来ないか細心の注意を払い誘導した。

ようやくスーパーに辿り着き、私が「ご一緒に買い物されますか?」と尋ねると「私は…ここで…買い物は…」そうだ、財布持ってないって仰ってたな。入り口で待つつもりだろうか。いや、この状態でここに放置するのはまずいんじゃないだろうか。そう判断し、自分の買い物は後回しにしてまずご婦人をお家まで送り届けることにした。

私「先にお家に帰りましょうか」
婦「…あ、はい、そうね、行きましょう」

買い物かごをセットしたカートを元に戻す。他の入店客の流れと逆走して店を出た。
歩きながら、これって夢とか霊とかじゃないよね?みんなこのご婦人のこと見えてるよね?私、誰もいないところに向かって喋ってるように見えてないよね?と、自分でもカオスだなと思う妄想が浮かんでいた。

店の外にはまた美しい夕焼け雲が広がっていた。
思わず「わぁきれい…綺麗ですよね〜」と私はご婦人に声をかけていた。ご婦人も「ほんとやね〜」と答えてくれた。

スーパーの近くまで来た時点でご婦人は自分の居場所が把握できたみたいで、スーパーを出た後は、自宅はここからすぐ近くだとか、ここをこう歩いたら自分の住むマンションだとか仰ってた。
歩きながらぽつりぽつりとまた話す。この頃には、ご婦人もだいぶ言葉が出るようになっていた気がする。「これから買い物してご飯作ったりされるんでしょ」「お子さんとかいらっしゃるの?」「私は子どもはいないのよ。主人はいます。まだ仕事だけど」「どのくらい前からここに住んでらっしゃるの」そんなようなことを聞かれ、答えていた。私からも「今日は本当に暑かったですよね」とか、近所に新しく建設中のマンションの横を歩きながらそこの話をしたりした。


漸くお住まいのマンション前まで来ると集合ポストでご自宅の部屋番号を教えてくださった。多分もう家まで帰れるだろうとは思ったが、念のため玄関前まで送ることにし、エレベーターへ一緒に乗り込んだ。
ご自宅の階に到着してエレベーターを降り、湖が一望できる通路に出た。さっき湖岸から見ていた景色より何倍も素晴らしい眺望がそこに広がっていた。ピンク色に染まったあの壮大な入道雲も見えたが、地上で見ていた時よりもっと大きく近くくっきりと見える気がした。
私「素晴らしい眺めですね。あの雲もきれい」
婦「ほんとうにね。この前の…(花火)の時もすごくきれいでよかったのよ」
そんな話をしながらお家の前まで来た。ご婦人は鍵を開けて扉を開けた。少し家の中の様子が見えた。きれいにアイロンが当てられたシャツがハンガーラックにかかっているのが見えた。
「それではここで失礼します」と私が告げると、彼女はまた鍵を閉めて私を下まで送るという。いやいや。もうここで結構です、いやそう言わず、という問答をしながらも結局下までまた一緒に降りてきてしまった。

どうしたものかと思いつつ、そこで私は逃げるように「ここで失礼します」と告げると、ご婦人は「これからどちらへ?」と尋ねられるので「さっきのスーパーに買い物に行きますね。さようなら」と言ってそのまま振り向きもせずに立ち去ってしまった。

その後ご婦人がエレベーターを上がり自宅に戻られたかはわからない。けれど少し見えた自宅扉の中も人の気配は感じられなかった。もしかすると一人暮らしで、探している家族はいないのかもしれない。

別れた後、ここの自治会長さんの連絡先を知っていたことを思い出し、すぐに連絡した。先方は事情を知っておられるのか、興奮して捲し立てる私の話を落ち着いた様子で聞いてくださり、

「わかりました。ご対応ありがとうございました。ここからはバトンタッチします」

と引き受けてくださって、ホッとした。

電話を切ったあと、スーパーで買い物をしながらも、暫くは今しがたの出来事が頭から離れず、上の空だった。


帰宅して家族にこの話をし、自分の中で反芻するにつれ、一つ見えてきたことがある。

このご婦人は、一緒に誰かと話をしたかっただけなのかもしれない。
どんなにきれいな景色が見える場所に住んでいても、それを分かち合う誰かがいなければ、その美しさは半減するのだろうな。
今日の夕焼け雲があまりにもきれいで、それを誰かときれいだねって言いたい。そこへ、眼下に歩く私を見つけて降りてこられたのかもしれない。

そういえば、彼女の最初の言葉もそういうニュアンスが感じられた。「あなたがいたので」は、何も私を知ってるから来たという意味ではなく、たまたま下を通りかかったから、ということだったのか。


そして彼女は途中こうも言ったのだった。

「ほんとうに。今日はとてもいい人に出会えたわ」

マスク越しだったけれど、そのお顔満面に笑みが湛えられているのがよくわかった。

私の方こそ、きれいな景色を一緒に「きれいですね〜」と言い合える人がいてよかったですよ。

次にいつ会えるかどうかわからないけど、今度会ったらこの言葉を伝えたい。

夕焼け雲がもたらしてくれたハプニングに感謝。

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