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隣りの自分

映画「すばらしき世界」を観て、モヤったことを呟いた。

けれどまだ何か物足りない気がするので、気持ちを整理するためにも書いてみた。

呟きの「社会生活を営む上での障害」という部分。誤解を恐れずに言えば、主人公三上の、病的な真っ直ぐさと手のつけようのない激情。あれは病的な、ではなく病そのものだと思う。
ADHD/ASDに見られる、0-100思考、感情のコントロールの苦手さ、ではないのか。

世の中にはこのような性質の人が一定数いる。診断の有無に関わらず、それを自分で制御するのは当人達にとっては至難の業なのだろうと想像する。だからと言って、そのような人たちが皆犯罪者予備軍であると言いたいのではないし、診断が下りていれば免罪になると言いたいわけでもない。犯した罪は償うべきである。

十数年前にお世話になったスクールカウンセラーの先生の言葉を思い出す。
周囲の環境次第だと。どんな環境(人)に囲まれて過ごすかで、その特性の表出がずいぶんと異なる。穏やかな人たちの中で育つと、至らなさの特性で自分自身を責めすぎることもなく自尊心を損なうこともないだろう。その逆だとどうなるか。しかもその環境が一過性ではなく何十年も積み重なったらどうなるのか。

映画の中で、主人公三上は出所後様々な人たちと交流していく。自分と似た境遇の相手と心を通わせたり、自分がこれまで味わったことのない優しさに触れて涙したり。壮絶な人生を歩んできた自分のことなんかわかりっこないと相手を突っぱねてみたり。市井の人々と変わらない人との触れ合いを通して励まされ、自らを変えようともがく姿。
しかしその結末が、ああなってしまうのか。
自らを抑えて苦しみ、結果自らを滅ぼすことになる。世界が自分を受け入れなかった。そんな風にも見て取れる。そんな世界が、すばらしき世界、なのか。それでも空は塀の中よりずっと広いから、すばらしいのか。

犯罪者の社会復帰の難しさを考えさせられたのはもちろんなのだが、ただ「難しい」というだけではなく、何が難しくさせているのかを丁寧に描いているので、それらに目を向けるきっかけを与えてくれた作品だと思う。
そしてこれは、犯罪者と一般大衆という関係性だけでなく、生きにくさを感じている全ての人とその周りの人達にも当てはまることではないだろうか。本人側の要因、周囲の要因、本人側の要因のうち周りが想像する以上に克服が困難なもの。それに対して本人、周囲がどう働きかけていくのか。結論は出ない。ずっと向き合っていくだろう命題である。そこで焼肉屋のシーンで長澤まさみが言ってた台詞だ。「自分ごと」として考えるということ。

一つ忘れないでいたいのは、自分には何の苦もなくできてしまうことが、他人にとっても同様に容易いことではないということ。「自分だったらどうするか」ではなく、その人物だからどうなるのか、までを考えるのが思い遣りなのではと思う。

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