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僕と僕らの『It's you, MARIO!!』

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』観ました?
観てない?
よし、このnoteなんてどうでもいいので今すぐ映画館に行きましょう。

観た?握手しましょう、握手。
いや~最高、もう言うこと無し。
特に上映直前に流れる劇場用特別CM『It's you, MARIO!!』ね。

幼児からおじいちゃんまでみんながマリオになって熱中する。
世代と共に移り変わる様々なマリオに、様々な世代が熱中する。
うまくいかなくてジタバタしたり、クリアしてガッツポーズ。
小学生の時に初代マリオと出会ってから、ずっと歴代マリオをプレイしてきた僕と同じように、全国または世界中がマリオに夢中になる。
このCM、主役はゲームじゃないんです、主役はあくまで「マリオをプレイする人たち」。
そして最後にマリオの決め台詞「It's me, MARIO!!」が「It's you, MARIO!!」に変わる演出!!

映画本編が始まる前に「映画代払った価値があった、、」と思ったのは後にも先にも今回が初めてですよ、だって僕がずっとプレイしてきたマリオの歴史が、「君がマリオだ、君たちがいたからマリオがあるんだ」って全肯定されるんだから。こんなの泣かないわけないでしょ、マジでちょっと泣いた。

ところで僕は、このマリオムービーをうちのチビ氏(7歳男児)と観に行ったんですけど、チビ氏とは以前、ドラゴンボールの映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』を一緒に観に行ったんですね。

僕はマリオ世代なので、同時にドラゴンボールリアルタイム世代でもあるんですけど、原作終了後の世界を描いたアニメオリジナルシリーズ『ドラゴンボール超(スーパー)』がめちゃくちゃ好きなんです。
元々マンガは原作派で、アニメオリジナルに興味が無いのでドラゴンボールも歴代映画はあんまり観てない(アニメオリジナルだから)僕が、なぜドラゴンボール超を毎週欠かさず見るようになったかというと、ドラゴンボール超は「親となった僕たちのためのストーリー」だったんですね。

観てない人にざっくり説明すると、ドラゴンボール超では孫悟空をはじめ各キャラの立ち位置は原作と変わらないものの、圧倒的にベジータの描写が増えるんです、それも「父としてのベジータ」

ドラゴンボール超でのベジータは、原作での「サイヤ人エリート王子として生まれ、無様な生より死を選ぶ誇り高き戦士」が嘘のように、でもそれまでのベジータが成長した姿として、不器用ながら息子を見守り、時に家族を守るためならあのベジータが無理な一発芸で笑いを取り、そして愛する妻が傷付けられたら激高する。とても人間臭いベジータ。
ハッキリ言ってドラゴンボール超でのベジータは、ダサいです。小学生だった僕らが見たら絶対に幻滅する。あのクールなベジータは消えてしまった。

そしてそれとは対照的に、いくつになってもあの頃のままの格闘好きでよく言えば変わらない。
悪く言えば、または大人になった僕らから見れば「年齢不相応で成長していない、いつまでも夢を追いかけ浮世離れしている」孫悟空。

毎週の放送で、この対比構造が明らかになるにつれ気付きました。
少年時代、夢中になってドラゴンボールを読み、孫悟空と天下一武道会、ナメック星、セルとの戦いを共に過ごした僕らは30~40代を迎え、あの頃憧れた何者かにはなれないことを、とっくに気付いてしまった。
大人になっても少年時代と変わらず何かに夢中になったまま、トップを走り続ける悟空のような存在にはなれないんだと。
そして「孫悟空にライバル心を抱き、内心憧れつつ孫悟空にはなれないことに気付いてしまったベジータ」は僕らの姿なんだと。
なりたい自分のまま生きる孫悟空は、僕らではないんだと。

そこに気付くと、家族を守り、理不尽にも耐え、理想は口にするものの現実と折り合いをつけ、それでも自分らしくありたいともがくベジータのなんと泥臭く、でもカッコいいことか。ドラゴンボール超は「アフター青春」とでもいうべき、僕らのための物語でした。いやマジで面白いから、めちゃくちゃおススメ。ビルス様がめっちゃかわいい。

ベジータについて長くなり過ぎたのでマリオムービーに話を戻します。
今作のマリオ、いきなりマリオの家族が出てきてビックリしませんでした?あれ何でかなーと思ったら、あくまでマリオを人間として描いてるんですよね、全然「スーパーマリオ」じゃない、「人間マリオ」
僕らが子どもの頃のマリオは「何人死んでも大丈夫、いつでもとりあえず世界を救いに行くヒーロー」

でも今作のマリオは「仕事はうまくいかず、家族にも馬鹿にされ(結構描写がキツイ)、ピーチのトレーニングもクリアできないダメな男」
本当に全然ゲームと違う、スーパーどころかダメな普通の”人間”マリオ。

それが、囚われた弟ルイージのためなら何度でも立ち上がり、立ち向かう。ファミコンで、スーファミで何度もプレイし死んでいったマリオの裏側が描かれ、復活できるコンピューターキャラではない、人間マリオが諦めない心で「スーパーマリオ」になっていく。それは少年時代マリオをプレイし、成長し子どもと一緒に映画を観に来た親世代の僕らに向け「失敗しても何度でも立ち上がれ!」という、マリオから何十年越しの応援メッセージでもあると思うんです。

そんなメッセージも込められたマリオムービー、ゲーム映画化史上完璧と言っていい出来で本当に最高でした。序盤、漏水現場に走っていくマリオ&ルイージの2D横スクロールゲームを再現したカットとか、あんなワクワクする描写ある??映画館で子ども達が「あれ知ってる!」とか声が上がるのも、映画館出た親世代がニッコニコしてるのもめちゃくちゃ良かった!

と、大満足で映画館を後にしたんですが。僕はたぶんマリオムービーの本当のメッセージに半分しか気づいていなかった。
帰りの車内でチビ氏(7)が言いました。
「ルイージ、へなちょこやったねー笑」
そうやねー、なんでピーチじゃなくルイージを助けに行くんだろうねー。

そこで、気が付いた。
このマリオが、マリオと育った僕らに向けた物語だとしたら、ルイージってなんなんだ?元々の原作ではマリオと遜色ない能力(※マリオよりジャンプ力はあるが滑りやすい違いあり)のルイージがなぜこんなに、か弱いのか?

「もしかしてマリオが僕らなら、ルイージって僕らの子どもじゃん・・?」
助けを求め震えるルイージ。
無力でなすすべなく囚われるルイージ。
ルイージを助けるためなら恐怖心を振り払い、ボロボロになりながら何度でも立ち向かうマリオ。
世界よりもたった一人の存在のため、ただの人間から「スーパー」になるマリオ。

象徴的なのは序盤の2D横スクロールシーン。
単に双子の弟ならあんなにマリオが先導し、扉を開け、導いてやる必要ないでしょう?ルイージはきっと、映画館に僕らが連れてきた、僕らの子どものメタファーなのです。

僕が思うに、この映画はもちろん全世代向け。
でも、特にマリオで育った世界中の僕ら世代に向け、「失敗しても、何度でも立ち上がれ!!」というメッセージと共に、会社で全然うまくいかなくても、誰かに馬鹿にされ理想の自分と違っても、家族を、そして子どもを守るため生きる僕らとしてのマリオを描いていたんだと思います。
ドラゴンボール超のベジータのように。


だから、映画本編前にあのCMが流れる必要があったんだと思います。
たぶんあのメッセージはこれから映画を観る僕たちにこう言っている。

このマリオは君たちだよ。
このマリオは今の君たちだよ。
このマリオは子どものためなら「スーパー」になれる君たちなんだよ。

It's you, MARIO!!



まさか映画館出た、帰りの車内で泣かされると思わないじゃん。。


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