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無期限活動停止中

 週末は別の顔。会社員と掛け持ちでアルバイトをはじめた。結婚して三年、子供はめでたいが出産ってそんなに金がかかるのかよ。自治体から補助金が出るらしいが、産んでから後払いなんて意味がないだろう。本気で少子化を憂うなら出産で稼ぐな。
 隣駅にうどんチェーンの求人を見つけた。パッとしないショッピングセンターのフードコート。店舗は地味だが日用品が揃うため思いのほか集客がある。久々のアルバイト、うどんを茹でてカウンターに出すだけの単純作業と高をくくっていた。なんだよこの重労働。二日目にして全身筋肉痛で満身創痍だ。大量のうどんを網で引き上げて湯を切るだけで腕がプルプル。盛り付ける具材はカウンター下の冷蔵庫に保管してあるからヒンズースクワットで膝がガクガク。休日の昼飯時は三時間に渡って行列が絶えない。頼むから素うどん以外の注文はするな。それでも消費者のマーチは進む。温泉卵のせろ、とろろのせろ、きつねうどんにしろ。その度、俺は膝から崩れて冷蔵庫を漁った。
「温玉きつねおろし豚しゃぶの冷やしを特盛で」
 おいおい、なんだって?どこか聞き覚えのある声に毛様体筋が反射応答。目の前の男をロックした。
「あれ、スコンブ?」
 和帽子を被ってマスクまでしているというのに勤務二日目でバレた。俺をそのあだ名で呼ぶな。最も面倒な商品を注文するな。そして、おまえはいまだにギターケースを背負っているのか。一気に不快感が込み上げ、俺はカウンターの下にうずくまる。
「石橋さんどうしました?」
 顔を合わせたばかりの峰岸は、学生アルバイトとは思えぬほど非常時に強い。天ぷらを揚げていたあいつ自らうどんポジションへ。レジ打ちのフリオはかき揚げが黄金色になったら引き上げるように。俺は腰を折ったままバックヤードへ逃げ込んだ。酸っぱい喉を麦茶でうがいして、継ぎ足したグラスを空ける。一息つくと、まだ坂堂の声が聞こえていた。
「石橋って言ったよね?」
「知り合いですか?」
「昔、一緒にバンドやってた」
 余計なことを言いやがる。
「素昆布?」
 峰岸も妙に人懐っこい奴で困る。
「知らない?あいつのあだ名。石橋ってブリッジストーンズじゃないよなぁって、そんで、なんかあってスコンブに落ち着いた」
「きつねおろし豚しゃぶ温玉の特盛です」
 坂堂の気配が消えると、俺は呼吸を整えてラインに戻った。
「大丈夫ですか?スコンブさん」
 石橋さんにしてくれないか。うどんの茹で上がりを知らせるタイマーが鳴り響き、反射的に腕が伸びる。
「うどんあがります」
 誰にともなく告げ、皆、事務的に「おねしゃす」と返す。フリオにとっては石橋よりはるかに発音しやすいようだ。
「スコンさん、ムリしないでね」
 彫の深い顔にしわを浮かべて満面の笑みを見せる。その表情は反論を許さない。忙しい現場だ。呼称など呼びやすいほうがいいに決まっている。
 行列が途絶えると脱力感とともに暇を持て余す。ダスターを握ってあちこちを拭きはじめた。気づけば坂堂はスマホを眺めながら一時間もズルズルと啜っている。採用面接の時、うどんは生き物だと教わった。茹で上がった麺は十五分で捌かなければならない。あいつの麵はすでに死んでいる。出汁を吸ってふやけたうどんが気の毒だ。二日目にして自分の中にうどん愛が芽生えていることに驚く。
「バンドやってたんすね。パートは?」
「ドラム」
「マジすか」
 レジの中締めをしていたフリオは、その日一番の笑顔を咲かせながらあたりを叩きはじめた。
「スコンブさんがドラムであの人がギターか。僕らと同じっすね」
「バンドやってんの?」
 久しぶりのバンドトークはどこか気恥ずかしい。
「やってた、かな。ベースボーカルがお笑いやるとか言い出して。だから、無期限活動停止中」
「冷やしキツネください」
「並でいいですか?」
 来客で話題は途切れる。うどんの玉を握って冷水に晒す。ここにはドラマーが二人とギタリスト。どんぶりに水を切ったうどんを移し、琥珀色に透き通った冷たい出汁を注ぐ。「バンドやろうぜ」なんてことにはならないだろう。膝を折って冷蔵庫からステンレスのタッパーを取り出すと、トングで甘い汁を吸った肉厚のあげをのせた。
「お待たせしました」
 坂堂はようやく温玉きつねおろし豚しゃぶの特盛を平らげ、下膳の足で俺の前に立った。自然と口元がゆがむ。なにを尋ねられても面倒だ。
「バンドやろうぜ」
 脊髄から指令が飛ぶ。
「やんねーよ」
 あいつは前歯を見せ、峰岸とフリオの視線が俺を刺した。
「また明日来るよ」
「平日はいねーよ」
 あいつは二、三頷いてから小さく手を振ってギターケースを背負いなおした。ピースマークが貼られたハードケースはあの頃のままだ。
「やんねーんすか」
「あいつ、ライブの半分以上MCなんだよ」
 峰岸は海老天を泳がせながら乾いた笑いを漏らした。
「あの人、歌ってたんすか?」
 曖昧に頷きながら茹で上がった麺を決まった重量に丸めていく。
「ほとんど説教だったけどな。俺の嫁さんがベースだった」
 フリオが乾いた笑いを響かせた。
「ベタだったか?」
「いや。ミネもベースとツきアってたもんな」
 お笑いに転身したベースボーカルのことだろうか。てっきりモヒカンの男かと思っていた。そこにボーイズラブがあったことも想定すべき昨今。話がややこしくなりそうで言葉を飲んだ。客は途切れたまま、夕飯時になっても客足はまばらだった。あとは大量廃棄されたうどんを始末すれば退勤だ。
「お疲れ様。筋肉痛は大丈夫?」
 妻は安定期に入っている。坂堂に会ったことを話すべきか。学生時分、彼女はあいつの子供を二度おろしている。子持ちで卒業するやつが多いことで有名な大学だった。最近では茶室に乾燥大麻を隠し持っていた茶道部がメディアを賑わせている。いつの時代も二〇歳そこそこで踏み外す奴は多い。
 結婚式に呼んだら新婦の両親が暴れだすということで、俺たちの式に坂堂は呼ばなかった。それでも三次会にギターケースを抱えて現れたあいつの余興に誰もが唖然とした。親族がいなくて本当に良かったが、会社の同僚がいる前で俺たちを陶酔させるのはアウトだろう。
「なんかあった?」
「いや別に」
 和帽をかぶってエプロンを締める。フードコートに坂堂がいないことを確認して定位置に立った。その日は俺の隣でフリオが天ぷらを揚げている。
「バンドーさんて、メチャウケるね」
「あいつまた来たのか?」
「ミネと3ニンで、スタジオにイきましたよ」
 ふと気が遠のく。タイマーが鳴り響いて、どうにか覚醒した俺は腕をプルプルさせながらうどんを引き揚げる。冷水に叩き込んで千切れるほどに締めあげた。次第にカウンターに行列ができはじめる。素うどんを頼んでくれればいいのに、生卵のせろ、ネギ多めにしろ、大根おろしは別皿にしろと消費者のマーチが続く。
「温玉きつねおろし豚しゃぶ」
 顔を上げれば案の定の坂堂。フリオなんか拳を突き上げてグータッチ。
「おまえら子供ができたんだってな」
 顔が紅潮する。バイトをはじめた理由を峯岸に話したことがあった。
「温かいほうですか?」
「いや、冷やしだろ」
「並でよろしいですか?」
「いや、特盛で」
 何を企んでいるのですか?
 俺はうどん二玉分を冷水で解しはじめる。バンドーバンドだった頃の記憶が鮮明に甦る。大学サークル会館のちいさなスタジオで、空のギターケースを背負ったままマイクをしゃぶるおまえに酔いしれた。体表面の孔という孔がすべて開放され、オーク材のチップレススティックで世界を叩き壊した。おまえのやりたいことくらい分かっている。初めて迎え入れる命に生誕の儀は欠かせない。新たに入信した二人に強く嫉妬している。おまえはまだミラクルを起こせるか。俺こそがビリーバー。再びおまえが現れた理由を身勝手に解釈する。
「お待ちどうさま」
 俺は前歯を見せる。次第に準備を整える。

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