「書く」は、感情のアーカイブ
昨晩、嶋津さんのオンラインバー、CafeBarDonnaにお呼ばれしてきました。
ニュージーランドの時差に合わせて開催時間を調整いただき、ありがたい限りです。集まったメンバーも「顔なじみ」の方ばかりで、すっかりまったり過ごしてしまいました。
「みなさんにとって、創作のゴールってなんですか?」
嶋津さんが口を開いたとき、難しい問いだなーと思いました。安心しきっていたこともあり「しゃべる」だと思考がまとまらない。
22時のアルコールは言葉を溶かしてしまいますね。
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創作の、書くことのゴールってなんでしょう? 私はなにを目指して、もしくは得たくて書いているんだろう?
ゴールというと、コンテストで入賞するとか、本を出版するとか、わかりやすい「たどり着きたい場所」が思い浮かびます。たしかに小説で紙の本を出したい夢はあります。
でも入賞や出版は作品が書けた先にあるもので、もっといい作品が書きたいともがいている段階だと、獲りたい意欲が眼前まで迫ってきません。なんだか、山の向こうとか地平線の彼方にあるイメージ……
誰に強制されるでもなくエッセイや詩、小説を書いているのはなんのためなのか。「ため」って言い方は大げさかもしれないけど、その「書く」は自分のなかでどんな意味を持つのか。
一晩寝てすっきりした頭で考えたとき、浮かんできたのは「感情のアーカイブ」という言葉でした。
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人は、忘れる生き物だと思っています。少なくとも私は、出来事もそれに紐づく感情も、時間が経つにつれ少しずつ指先から零れ落ちていく実感を持っています。
忘れてしまっても覚えておきたいから書いている、と言えるのかもしれません。
私は去年、noteの毎日更新をしていました。連続で更新した日数は100日。この「100日書いた」という事実を、昨晩のオンラインバーで話題に出るまで忘れていたんですよね。100日も書いたのに忘れるのかよって話なんですが。
で、改めて当時を振り返ってみたとき、書きたいと頑張っていた自分をちょっと思い出したのです。
毎日書くの、苦しい日もあります。日々のなかで、心に留めた出来事と感情を言葉にする。100本のなかのいくつかには、いまにつながるような大切な出会いなんかもあったりして。読み返すと、ありありと思い浮かぶんです。そのときの情景や自分の気持ちが。
人は、変わっていきますよね。良い変化もあれば、その逆もある。海が凪いだり荒れたり表情を変えるように、意識も感情も一定でとどまるというのは難しいものです。
たとえば、成し遂げたい目標があっても、時間が経つにつれて意欲が小さくなっていくかもしれない。一生の愛を誓う大恋愛でも、その熱を忘れてしまうかもしれない。もちろん変化自体が悪いことではないけれど。
ただ、書き残しておけば。
暗い穴に取り残されたような日に、不意に背中を押してくれることがある。読み返して蘇った過去の感情で、もう一歩踏み出してみようとがんばれたり、やさしくなろうと誰かに手を差し伸べられたりする。
そんな風にして感情の軌跡を残しておくことが、もしかしたらこの先の人生を少しだけ彩って豊かにしてくれるのかも、なんて思ったりします。
過去と未来をつなげていく道を、いま作っているということだから。
もちろん書く海はあまりにも広すぎて、私の頭に浮かんだこの話も浅瀬で拾い上げた貝殻のひとつみたいな例えなのですけど。
CafeBarDonnaは、1時間半の夜の静寂では到底潜り切れない深い海でした。
次回、またお会いできる日を楽しみに。嶋津さん、ありがとうございました。
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