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63、プラット・インスティテュート

1965年はNY5区の一つマンハッタンの最南端からフェリーで約8キロ
を25分で毎日7万人の人を運び、途中で自由の女神の近くを通過しながら
のスターテン・アイランドへ道場通いをしていた。このフェリーは
ぼくが通っていた時は10セントだったがNYがリンゼー市長がに変わって
1970年から20セントになった。又当時車も3ドルで乗船出来たが2001年
911テロ事件によって全面的に廃止された。1964年に完成したベラザノ橋
はマンハッタンへの車の通行が可能になったからである。現在はフェリーは
タダである。

このスターテン・アイランドの道場でクリスマス・ギフトとして10クラス
コースがあり、奥さんからのプレゼントで夫のジョーがクラスに入ってきた。
彼はぼくよりも7歳上でかなり不器用な生徒だった。しかし、彼はプラット・
インスティテュート美術大学の主任教授で油絵とドローイングを教えていた。
彼はアメリカで最も大きなTIME誌の表紙や他のメージャー雑誌の表紙を
飾っていた。1962年から学部長や学長の功績がありながらそれらを望む事
はなく、教える事が好きで今も若い生徒達を指導している。彼はアナトミー
(デッサン力を培う為にダビンチではないが、病院で半年間解剖学を学んだ)
その後「エイリアン」という映画があったが、その宇宙のモンスターの
デザイン料が3億円だったが、ジョーは次のモンスターのデザインを1億円
で依頼されたが予算不足で中止になったと言う。

ぼくは空手以外のアーティストである知人を得た事に喜び親交を深めた。
ぼくら夫婦がジョーの家に食事に呼ばれたり、彼の作品に驚き、羨望の
眼で家にある絵画を眺めた。やがてぼくは空手の後輩に後継ぎが渡米後、
ジョーとの繋がりが薄れていった。その後ぼくの仕事でイラストレー
ションが必要になりプラット美大を通じて彼との連絡が出来、又彼との
友人関係が戻った。

ぼくはその頃、NYでデザイン賞を数々受賞していた事もあって、ある日
ジョーとの会食でぼくに「プラットで教えてみないか」と言われた。
ぼくはビックリしてその時は返事も出来なかったが、後に「人を教える
なんて自分にはまだそんな力はない」と答えたと思うが、「今迄ミノル
がやってきた事を伝えれば良い」と言われ、又「教える事は学ぶ事」
でもあるとの彼の言葉に少しずつ傾いていった。決してぼくが幾つかの
デザイン賞を受賞したからと言って優秀だったからではない。

そして1978年にあの渡米直後に夜のブルックリンを彷徨いながら
辿り着いたプラットの校門を胸を張って白昼堂々と入る事が出来た。
NYには芝生のキャンパスがある大学は少なく、ましてや美大はここ
プラットだけである。その芝生を踏みしめながら口元が綻んでいる
のが分かった。日本で高校をやっと卒業し、大学はNYの美大を中入、
中退のそんなぼくが教える立場になるとは思いもつかなかった。
ぼくの最初のクラスは2年生でグラフィック・デザインだが、最初は
版下(フィニッシュ・ワーク)を教えるのだが、デザインとは少し
異なる事に違和感があったが、それでも何とか初めてのクラスを
終える事が出来た。ぼくは35歳になっていた。

プラットについては月謝に対しての価値、日本の若者言葉だとコスパ?
と言うか全国の美大では毎年6位以内であり、世界的にも6位を確保。
それは卒業生の業界での活躍が証明している。やはり学ぶ事にも質が
重要であり、ぼくがその仲間入り出来たことに喜んでいた。余談だが
卒業生にはサイケデリック・アーティストのピーター・マックスや俳優
のロバート・レッドフォードがいる。

それからはぼく自身が学ぶ事で詳しくは「6, 教育」に記したが、6年後
に多くのデザイン賞受賞や生徒達の受賞もあって非常勤だが助教授から
準教授になった。教え方にはぼくなりの考えもあり、学部長に相談すると
好きなようにやって良いとの返事だった。数年後にタイポグラフィーの
クラスを受け持つようになり、日本にいる外人が日本人に国語や習字を
教えるような事だと思った。プラットでは1クラス15人を一応の生徒数と
してより多くなった時にはクラスを増やし分けるようになっていた。

ある時、SONYがロゴを変えるとの広告があり、採用者には5000ドルの
賞金がある事を知り、クラスで一人10点以上のデザインをするよう課題
として出した。ぼくも同格で生徒達と一緒にやり、何と皆20点以上の
作品を提出してきた。ぼくはそれらを全て校内のギャラリー、廊下一杯に
展示したが、他クラスの生徒や教授達がその圧巻する展示に驚いていた。
結局SONYはキャンセルする事で終わってしまった。

またクライアントを1日教授として招き、クラスを持ってもらった事がある。
作り手側からではなく、買い手側からの生徒の作品はどう見るかが興味
あった。クライアントは普段とは違う仕事?を喜び双方に取ってWinWin
だった。ぼくはただそのクラスをニヤニヤして見ているだけだった。

授業で人気のある教授は生徒同士の話でどのクラスの何教授が良いとか
悪いの話題が出るそうで、ぼくはある時、生徒同士の会話を耳にする
事があり、ぼくは評判は良い方で「モリタ教授が良い」の言葉が聞こえて
きた時は笑いが顔まで出たかも知れない。

ぼくのクラスである生徒とぼくの意見の相違があり、皆の前で論戦が
あったが、ぼくと生徒との激しい議論は楽しい事だった。その後ぼくは
日本の美大でも数校クラスを持った事があるが、日本の生徒は大人しく、
寝ているか起きているかも分からず、意見を言う生徒は殆どいないに
等しかった。クラスが30人ほどであれば各人全てぼくに質問させる事に
したが、最初の生徒と同じ質問をしない為に寝られない。それでも寝る
ような奴はぼくの目の前の机の上で目を閉じさせて強引に寝させる事に
した。こうしてもまだ寝るような生徒はいない。

又生徒達は高い授業料を払っているので成績表は単にA,B,Cだけでなく、
課題、時間厳守、休み、遅刻、などの一般的評価態度と技術面での、
コンセプト、オリジナリティ、仕上げ、プレゼン、などを分けて夫々に
評価し、故に全体の成績はこうなる。という詳細の評価表を作った。
それによって生徒達も納得出来たようだった。ぼくは会議が嫌いで
10年間1度も職員会議に出た事はない。ぼくは普通が嫌いなので、変態
かも知れない。しかし、生徒間ではかなり人気があったようだ。

ぼくの指導法は「6, 教育」にあるが、学期末には必ず生徒達と一緒に
食事をする事にした。これはクラス以外でのコミュニケーションが
必要と考え、スタジオの近くの友人がやる5番街の日本レストランへ
連れて行きアルコールはぼく持ちで食事は生徒が払う。それでも
生まれて初めて食べる寿司や天ぷらなど皆で和やかな時間を過ごす事
が出来た。その頃はオフ・キャンパス・クラスと言って生徒達はぼく
のスタジオでのプロの仕事を見て興奮していた。スタジオは充分な広さ
があり、皆が座れるように新たに椅子も調達した。これらの事で生徒達
とのコミュニケーションを作られていった。

ぼくのコネチカットの家の近くに様々なクリエイティブ界の殿堂入り
したブラッドベリー・トンプソン氏がおり、氏の紹介でエール大学院の
助教授からぼくの客員としてクラスを依頼されて行った事があるが、
彼らは頭が良過ぎるのか、「ぼくらは就職が難しいのに何故プラットは
すぐに就職出来るのか?」の質問だった。ぼくの答えは「大手代理店
でも面接官は貴方達よりも学歴が低い、なので彼らは自分のポジション
を守る方が心配だからだ」と言ったがこれは以前日本の駐在員が部下に
優秀な人材がいる時は彼を地方に追う事にしている。と言った言葉通り
だと思った。特にクリエイティブ界では学歴よりも才能を重く見る傾向
があるからだ。、、、が日本では必ずしもそうでもない事を知った。

10年の間にはプラットの卒業生ポール・ランド (実際は中退)とジョージ・
ロイスの2人展があった時はぼくがポスターをデザインし、プラットの
入学希望者を募る為の高校生へのポスターなども数年デザインする事
になった。卒業展のポスターはプラットの画材店で長い間ベストセラー
を続けていた。この頃ぼくはある記事で「大きな樹はユックリ育つ」
と言う言葉を目にし、過去プロフェッショナリズム(即実践)を目指して
きたぼくに取ってショックだった。それがプラットを止めた大きな原因
だった。過去10年間、ぼくは45歳になっていた。

64、出版へ続く。

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