97 Visual Messenger :

現在コンピューターの急速発達で20年前、10年前、5年前と
時期が短くなる程そのスピードは速くなっている。速度だけでなく、
サイズはより小さく容量は大きく、一般人が求めやすい価格に
なっている。

高齢者には追いつくのに必死だが、ぼくはIT時代に反する訳では
ないが、この時代に敢えてアナログに挑んでいる。資料集めは昔は
ナショナル・ジオグラフィック誌を何冊も見てファイルにしていたが、
その時間は膨大であり、ITになり数分でグーグルで調べる事が出来る。

何故今イラストを始めるのかの自身への質問に、初孫への教育資金の
サポートだった。爺ちゃん”ジジ”に何が出来るか?過去自分自身の
ブログを書き、かなりのファロワーがいたが、孫が日本語を学び理解
出来るとは思わず、絵画ならジジはこんな人だったのかと視覚的に
訴えられ、理解出来ると考えてイラストをやろうと考えた。

かと言って、自分はどんな絵を描くのか?どんなスタイルか?の自身
に対する疑問があり、好きなアーティストのスタイルを真似るのは
嫌だったし、数十年の経験を持つプロにはデッサンや筆のタッチで
敵う訳もなく、その悩みや道草で数年を費やしてしまった。ぼくは
一時ポスター・アーティストと呼ばれる事もあり、プラット・イン
スティテュートのポスターを毎年手掛け、数々の受賞歴もあって、
「これだ!」と気が付いた。ポスターはビジュアル・メッセージで
国や人種が異なっても視覚に訴え、子供にも理解出来。遠くでも
そのメッセージが理解出来る事が条件である。

その道のプロはササッと描いても絵になり、巧さが表現できる。
ピカソなどはその最たる人だが、FBでも猫やスズメをササッと
描き人がおり、ぼくには絶対に出来ない。ボロを隠す為かどう
しても描き込んでしまうのだ。やはり本物は違う事に驚き、そう
描けない悔しさが出てしまうが、それでも描くと思っている。

日本にはアニメの大流行もあり、綺麗で可愛いイラストが溢れて
いるが、ぼくにはそれが描けず、それでも自分の描きたい物を描けば
良いと思った。50余年のアメリカ生活でぼくの考えは日本のそれと
異なる部分があるが止むを得まい。日本の多くの作品は小型の物が
多く、アメリカでは大型作品が好まれるのは家屋の壁の大きさの
違いからくるのであろう。

グラフィック・デザイナーとして受賞作品が多くの展覧会に参加
させてもらったが、個人としてイラストレーションの6人の
グループ展に参加したが、それらは小型の水彩画で「売る」為の物
だった。安価で買い易さからだろうが、ぼくの作品だけが売れて
しまい、変な自信がついてしまった。ただ水彩画は失敗すれば破り、
最初から書き直しとなってしまう。イラストとしてNYのソサエティ
オブ・イラストレーターズ・クラブ、プリント誌、パリの「最も
記憶に残るポスター展」などでの受賞、掲載があったが、それで
生活が出来るとは思えなかった。

イラストを油絵具で始めたが、油絵具が高価である事を知らず故に
薄く溶いて経費節約をしてきた。年金暮らしの高齢者の言葉である。
また良筆も高価であり、悪い毛羽立った筆でも使い方によって良い
効果が出ることも知った。書き直し部分はジェッソで塗り、部分を
描き直す事も覚えた。もちろんキャンバスも自分で材木を買って
自分で作った。

問題は作品の値段の付け方である。一度売る目的でのグループ展は
ギャラリーが値段を付けた。日本ではそのアーティストの知名度に
よって価格が決ま理、1号(ハガキ1枚分)1万円と聞くが、ぼくは
素人なので参考にはならず、オークション形式にしようと思うが、
その方法も分からない。ぼくが消えた後には数億円の価値になるか
、、、は絶対にないが。

人が自分の意思や思考をより多くの人に訴えるには言語、絵画、
彫刻、音楽、舞台、映像、書物、など様々な方法があるが、自分が
好きで得意な方法を見つける事だと思う。人には喋る事が得意な
人や不得手な人がおり、黙って出来る仕事も多い。その人達は作品
が喋ってくれる。
ただぼくには美しい自然や静物、人物など目で見た物をそのまま
画面に写し取る事ではなく、少し捻りを加えてそこにユーモアや
風刺、嗜虐を加え更に人種、宗教、環境問題、人生、など諸問題を
訴える事にした。どんな素晴らしい芸術作品も自然の美しさや
荘厳さには敵わないと確信する。

現在80点ほどが完成したが、50号(B全?)15号大小あり、個展
時期には100点を越すだろう。さて次はどこでどう展覧会を開くか
である。NYか日本か?NYを先にやるには送料だけでも莫大な費用
がかかる。やはり日本(東京)が先か?
ぼくは「普通」人間ではないので、NYの友人O氏がマンハッタンの
ギャラリー街グリニッチ・ストリートで柔道の道場をやっており、
まだ彼の約束は得ていないが、道場をギャラリーにするのも面白い
と思った。今年こそコロナも少し収まった所で是非道場ギャラリー
開催へと向かっている。

また日本のギャラリーは東京の中心部は小さい場所が多く、レント
料が高く、あるギャラリーはエレベーターで何階かに登る。そう
考えていた所、テレビで銭湯の廃業のニュースが出ており、これだ
と思った。調べてみるとコロナの影響が大きく、廃業者の凄い
リストが羅列していた。
若い世代は自宅のお風呂を使い、銭湯へ行く機会がなくなった。
昔は団地やマンションで個人宅でお風呂がなく、銭湯があったが、
現在の銭湯のオーナーは高齢化し、薪材入手が困難であり、CO2の
環境問題もある。それら薪を釜に焚べる労働、風呂場の掃除、
その他肉体労働が激しくオーナー達の次世代の子供達も儲からない
と仕事を繋ぐ意思がないのが現状である。

昔の銭湯のメリットは玄関入り口が宮大工によるものか立派な神社
仏閣のような面影があり瓦葺きの屋根を要し、風情その物である。
下駄箱、脱衣場の籠、風呂場の富士、などそのままの状態で
ギャラリースペースに出来ないかと考えた。もし狭い場合には
男女間の仕切りを取り、広くして絵画の展示以外に手芸、アート&
クラフト、軽音楽、茶道、花道、軽食カフェも可能と考えた。

更に調べると既にギャラリーをリフォームしたギャラリーがある
様でそこは大規模に改修され銭湯の面影はない様に見受けられた。
きっとレントも高額な費用なのだろう。ぼくはそのままの銭湯が
良いと思う。ニュース性もあり他と異なる事に夢が湧いてくる。

東京でもNYでも普通ではないギャラリー・スペースだがその確率
はまだ分からない。しかし今、高齢者となったぼく自身の最後の
勝負の挑戦だと思っている。

終。


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