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ゲームと小学生の私

トップの画像が荒くて申し訳ありません。実家のVHSから発掘した、小学生の頃の私の夏休みの工作を映した一コマです。詳細は下の方で書いています。

私がゲーム開発者を目指した原点は小学生の頃にあると思っています。そのあたりをいろいろと書いていきたいと思います。

幼少期にファミコンと育った私が初めて買ってもらったゲームハードはスーパーファミコンでした。発売と同時ではなかったと思いますが、小学校低学年の頃の誕生日にスーパーマリオワールドと一緒に買ってもらったと記憶しています。
大型家電量販店のゲーム売り場やネット通販の無い時代、父と車で小さな日用品店で買ってもらいまいた。
以降、ほとんどのゲームハードを買い続けて今に至ります。

ゲームと放課後

学校が終わると、ランドセルを置いたらすぐに友達の家に遊びに行くことが多かった小学生時代でした。ゲームの情報はテレビCM、ファミ通やコミックボンボン、コロコロコミックで集め、友達同士で交換し合う日常でした。
友達の家に行くとたくさんのファミコンソフトがあり、ソフトを貸し借りしたり、順番を守ったり、順番が回ってきたもののすぐに失敗してしまった友達にはもう1機サービスしたり、子供ながら人付き合いの基本ルールみたいなものもファミコンと共に身についたのかもしれません。

家では親から勉強をしなさいと言われたことはなく、宿題以外は自由にさせてもらっており、塾にも行ったことがありません。
そのうち別の記事にしたいと思いますが、いろいろゲームから学んだことは多く、ゲームクリエイターの先輩方にはとても感謝しています。

ゲームセンター

家庭用ゲームも好きでしたが、ゲームセンターも好きでした。
といっても当時はまだまだ薄暗く、不良の溜まり場と言われるような場所でしたので、小学生だけで行ける場所ではありません。
ゲームセンターというより、おもちゃ屋や駄菓子屋に併設されているゲーム機や、デパートの屋上、遊園地のゲームコーナーなどに連れて行ってもらっていました。
特にクレーンゲーム(UFOキャッチャー)が大好きで、親にお願いして遊ばせてもらっていました。当時は100円で2プレイでした。
当時のUFOキャチャー(UFOキャッチャーDX)は景品窓の位置が高く、ビデオコーナーから椅子を引っ張ってきて立ち乗りして景品をじっくり狙っていました。

大人になってからは当時遊んだレトロゲームを探してみたりすることもあります。
当然ながら、当時と身長が変わっているため記憶と感覚がおかしくなるのですが、古いUFOキャッチャーやエレメカゲームに出会えた時は懐かしく思います。

夏休みの自由研究

そんなゲームだらけの私ですので、夏休みの自由研究は毎年何かしら遊べるものをつくっていました。スマートボール、しかけ絵本、パチンコ型貯金箱などなど。
小学校3年生の時に作ったのは「UFOキャッチャー」でした。小学生の工作ですから、電動ではなく手動です。アームのキャッチに相当するものは磁力(磁石)でした。箱の天井上にある黒いレバー(ドライバーセットの柄の部分)を操作し、XYの移動をします。箱の側面にあるリールにチェーンが巻いてあり、くるくる回すと繋がれた磁石が降下し、景品をくっつけて持ち上げます。
またくるくるとリールを巻き、景品を出口まで黒いレバーで移動させ、手で景品を磁石から取り外します。6年生だったらここを電磁石にしたかもしれませんね。もちろん親に手伝ってもらって作ったものですが、その後に市の展覧会に飾ってもらいました。当時のビデオが見つかり、また手書きの作品紹介文も見つかり、今思えばゲーム開発者への道はこのあたりで決まっていたのだなぁと思い出しています。
(UFOキャッチャーを開発しているわけではありません。)

作品を指差す私
作品の紹介文

みなさんは小学生の頃、夏休みの自由研究は何をしていましたでしょうか?
ゲーム開発者の夏休みの自由研究を見てみたいですね。

ゲームをつくる

当然ながら学校にゲーム機は持ち込めません。小学校高学年ぐらいあたりにゲームボーイを手に入れましたが、それまではゲームはテレビの前で遊ぶのが当たり前なので、ゲーム機を持ち運ぶという考え自体がなかったと思います。(ゲームウォッチの存在はわりと大人になってから知りました。)
ですが、やっぱり友達と休み時間にはゲームをしたい。そんな私は自由帳にマップを描き、鉛筆に1〜6の数字を書いてサイコロとし、消しゴムをコマとしてスゴロク遊びを作っていました。オリジナルスゴロクです。
当時、ファイナルファンタジーにハマっていた私は、RPG風にスゴロクの要所にボスを配置しました。HPを設定して鉛筆サイコロでダメージを抽選します。倒せないと進めません。
短い休み時間でも遊べるようにボスのHPや配置のバランスを調整する、というレベルデザイン的なこともやっていました。
私は基本的に作って遊んでもらう側が好きです。自由帳に向かって鉛筆を転がしてもらい、友達の笑顔や喜び、それらを共有する時間が楽しかった思い出です。

後にドラゴンクエストのバトル鉛筆というものが発売されました。普通の鉛筆よりも高くて子供のお小遣いではあまり買えなかったと思いますし、学校でも禁止されていました。
子供ながらこのバトル鉛筆の毒キャップのアイデアには驚かされたと記憶しています。転がすと攻撃と同時にキャップに書かれたダメージを受けるというものです。すぐにマネしたくなったのですが、なかなか六角形の鉛筆キャップが文房具店に売っておらず、どくキャップのセットだけは買いました。そのキャップは今でも使用しています。

バトル鉛筆のどくキャップ

このオリジナルスゴロクをたくさん書いた自由帳は何冊もあったのですが、今は1冊も残っていません。
国語や算数の学習ノートよりはるかに多い冊数を買ってもらっていたと思います。
今ではとっておけばよかったなと思っています。また、自由帳を買い与えてくれた親にも感謝しています。

将来の夢

昨年のデータですが、小学生の将来の夢ランキングは長年1位はスポーツ選手とのことです。ゲームクリエイターは昨年2位まで上がってきていました。

引用:調査 クラレ

ゲームに触れる機会は私が小学生だった約30年前にくらべると格段に増えていると思います。スマホやタブレットで無料で遊べたり、スイッチなどの家庭用ゲーム機は多くの家庭にあると思います。
ゲームセンターは減り続けていますが、イオンモールのような場所のゲームコーナーは人気ですし、YouTubeでのゲーム実況も普通のものになりました。
そういった日常の接点の多さからゲームクリエイターになりたい子供が増えているのかなと思います。

私は小学校の卒業文集の、「将来なりたいもの」のページには、
「ファミコンつくる人」
と書いていました。「を」が抜けているし、ゲームではなくファミコンと書いているあたり、今見ると笑えてしまいす。
当時の私自身にはファミコンソフトを作りたいのか、ファミコンのようなゲームハードを作りたいのか、はたまたUFOキャッチャーを作りたいのか、はっきりわかっていなかったと思います。ですが、やはり遊ぶ側ではなく遊びを作る側になりたいと思っているのは間違いないと思います。何より、面白さの「調整」をするのが当時から好きだったのです。

このあと、中学ー高校ー大学ー就職と進んでいくのですが、その辺りはまた別の記事でゲームクリエイターになるまで何を作ったり遊んだりしていたかなど書いていけたらと思っています。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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