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「支えを力に!フィンランドで闘う挑戦者」杵渕周真(アイスホッケー選手)

17歳で選んだ道 北欧の地で続ける挑戦

杵渕周真(きねぶち・しゅうま)(23)は根っからの挑戦者だ。

2014年。
高校2年(苫小牧東高校)の夏にフィンランドへ留学した。目的は異文化理解だったが、受け入れ先のホストファミリーの計らいもあり、国内のジュニア4部リーグでプレーした。翌年6月の帰国予定日が迫る一方、ジュニア2部の試合を観戦した杵渕は、ある決意を固めていた。

「プレーのスキルやトレーニングに対する姿勢は劣っていない。今、ここでプレーし続けていれば、いつか上のリーグへ行けると思いました」

杵渕は留学後もフィンランドでアイスホッケーに挑戦する道を選んだのだ。
当時を「不安よりも、自分の人生はどうなっていくんだろうという期待感の方が大きかった」と振り返る。17歳で異国の地での挑戦を決めた少年は、未来へ胸を膨らませていた。

それから7年。
現在はシニア3部リーグのJärvenpää Haukat(ヤルベンパー・ハウカット)に所属し、日本人初となるフィンランドでのプロホッケー選手を目指している。

「ずっと今のレベルに満足していない自分がいるんです。ずっと挑戦し続けることが好きというか、根にあるというか…。同じ環境にいるのが好きじゃない」

その言葉には挑戦者としての力強さが宿る。
そして、杵渕は自身の挑戦を支え続けた大切な人を想った。

「この母親じゃなかったら…」

杵渕が想いを馳せたのは、フィンランドからおよそ7500キロ離れた日本で暮らす母だった。

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支えてくれた母の存在

杵渕は人生で一度だけホッケーを辞めようと思ったことがある。

恵まれた体格の杵渕は、中学(石神井西中学)でバスケットボール部に所属した。同時にホッケーのクラブチームにも所属していたため、あくまでホッケーを優先させる条件での入部だった。
しかし、杵渕はバスケットボールでも存在感を発揮する。中学1年でベンチ入りし、徐々に頭角を現すと、中学2年の終わりには、都大会新人戦で準優勝を果たした。

そのまま春休みが明け、最高学年となって間もないある日のミーティング。
部員全員を前にし、監督は杵渕に言った。

「バスケかホッケー、どちらかに決めろ」

杵渕の心は揺らいだ。
海外とは異なり、日本では一つのスポーツに専念することを求める風潮がある。
幼い頃から続けてきたアイスホッケーか、充実感を覚え始めていたバスケットボールか。答えはすぐに出なかった。

「決められません。あと1日ください」

そう声を振り絞るのがやっとだった。

「その場にいたチームメイトは『そろそろ杵渕はどちらに絞るのか決めなきゃいけない』と思っていた時期だったので、『ついにこの時がきたか』という反応でした」

誰にも相談せず、帰宅。
母と二人暮らしをしていた杵渕は、夕食を食べながら、自分を納得させるように母へ想いを明かした。

バスケ部での時間が楽しいこと。部活には仲の良い友人が多いこと。アイスホッケーは多額の費用を要すること。それは女手一つで育てる母への負担を強いること。そして、アイスホッケーを辞めること。

何も言わずに息子の言葉に耳を傾けていた母は、語気を強めて言った。

「お金はあなたが心配することじゃない。ここまで続けたホッケーをそんな理由で辞めていいの?」

母の言葉を受け、一晩中ベッドで泣いた。目を真っ赤にさせ、考え抜いた末に下した決断。それは、ホッケーを続けることだった。

翌朝、母にバスケ部を辞めることを告げ、学校へ向かった。昼休みになり、バスケ部員の目を気にしながら、職員室にいる監督へ退部届を出した。

「いざ僕が『バスケを選ぶ』と言葉にした瞬間に、心にぽっかり穴が開いたような感じがして。その穴を埋めてくれるかのように、母が僕を説得してくれました」

これまで歩んできた人生を振り返ると、いつも母に支えられていた。

日本にいた時、母はなるべく試合へ足を運び、プレーをビデオで撮影してくれた。留学を決めた時、「同年代の友達と楽しむだけじゃなくて、ちゃんと文化も見てきなさい」と背中を押してくれたのは母だった。留学後もフィンランドで残ることを告げた時、母は「それなら新しいビザの手続きも準備しなきゃね」と快く受け止めてくれた。

「母はずっとサポートしてくれる姿勢でいてくれました。それがなかったら、フィンランドにはいないと思いますし、競技費用がかかるアイスホッケーもしていないと思います。バスケを辞めた時も、母の一声がありました。今の僕がいるのは、母親がいるからです。母親でありながら、親友のような関係でもある。何かあったら、適切なアドバイスをくれる存在です」

杵渕は母を「親友」と表現した。友達ではなく、親友。
それは一人息子を支えた母との距離感を示す、彼にしかできない表現だった。
そして、ゆっくりと思考を巡らせながら、柔らかな口調で言葉を続けた。

「母がいなかったらというより、この母親じゃなかったら、今の僕はいないと思います」

母が支えてくれたからこそ、今の自分がある。
そのことを噛みしめるかのように、杵渕は優しい表情を浮かべていた。

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支えられてきた人生から、与える人生へ

杵渕は今、競技費用を募るため、クラウドファンディングをおこなっている。

「一方的にお金を募ることに気が進みませんでした。でも他の選手の活動を調べると、色々と発見があって。自分の経験を還元できることをしたいと思いました。(クラウドファンディングで)ギブアンドテイクみたいな関係を築きたい」

杵渕は資金提供をしてくれた方へのお返しとして、自身の経験を還元する試みを始めた。今年8月には、17歳のアイスホッケー選手を1週間かけて初めて指導した。

「実際に指導すると、予想できないことが起きる。『この子、この重さは持ち上げられないな』とか、『この子、こういう動作は苦手だな』とか。僕も学ぶことが多かったです」

指導した選手はその後、U-18デンマーク代表へ選ばれた。

指導した選手が結果を残したこと。そして、自身のギブが実を結んだこと。杵渕はそのことを、ホッとした表情を浮かべながら喜んだ。

母の存在。多くの方からの応援。
その支えを受け、今は自身が与える立場になりたいと考えている。

「やっぱり、自分1人ではここまで来られなかった」

クラウドファンディングはその第一歩。あくまで目標はプロホッケー選手になることだが、終着地点として想い描くのは日本だ。

「日本のホッケーを強くしたいですね。日本代表となり、自分が得た経験を代表選手に伝え、引退後も日本ホッケー界に伝えていけたらと思います」

支えられてきた人生から、与える人生へ。純な瞳は真っ直ぐに未来を見据えていた。

「一段一段、階段を上るのが、僕なんで」と笑う杵渕周真は、支えを力に変え、夢への階段を自らの足で駆け上がる。

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★杵渕周真(きねぶち・しゅうま)(米名:ジョセフ・ケンジ・ホーキンス・杵渕)
1997年7月14日生まれ。23歳。アメリカ・カリフォルニアでアメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれる。5歳からアイスホッケーを始め、6歳の時に日本へ移住。その後は西武ホワイトベアーズ、西武東大和ジュニア(HIS)でプレーを続け、石神井西(しゃくじいにし)中学校時代はバスケットボール部にも所属した。高校は苫小牧東(とまこまいひがし)高校へ進学し、高校2年時にフィンランドへ留学。その後もフィンランドでアイスホッケーをプレーする道を選び、現在に至る。現在はフィンランド・プロリーグでのプレーを目標とし、シニア3部リーグのJärvenpää Haukat(ヤルベンパー・ハウカット)に所属している。
※杵渕選手のHP:https://shumakinebuchi.com
※杵渕選手のNote:https://note.com/josephhawkins97

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(※記事中の写真は全て本人提供)

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