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Milk inside a bag of milk inside a bag of milk 僕らは「第4の壁」を超えるべきではない

本記事には、「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」のネタバレが含まれます。ご注意ください。

最近は、プレイヤーの壁を越えてキャラクターが僕らに話しかけてくる、「第4の壁」を破るゲームが増えてきた。
大爆発したキッカケは「Undertale」だと思うが、過去に遡ってみると、プレイヤー名を入力させながらラスボスで祈りの対象にしてくる「MOTHER2」とか、ゲームを消させる入れ子構造を採用した「MOON」とかの、メタゲーの原初と思わしきゲームもいくつか存在する。

そうしたゲーム群が増えてくる中で、いつしか僕らはゲームが語りかけてくることが当たり前になってきた。
非日常を過ごす彼らが、次元を突き破ってこちらに干渉してくる(プログラムの域を出ることはできないが)ということも、あまり珍しい技法でもなくなってきたのだろう。

しかし、そうしたゲームは驚くほどに面白い。
「DDLC」のモニカや「Oneshot」のギミックはPC上という空間を用いて僕らとキャラクターを結び付けてくれるし、前述した「Undertale」でもプレイヤーという存在をゲーム内で見事に表現している。
メタフィクションの超傑作である「Bioshock」は、ゲームの序盤を見事に生かしてプレイヤーの度肝を抜く展開を演出した。
そうしたメタフィクションは、仕込んであることがプレイ前に分からなければ新鮮な驚きを与えてくれる。
スパイスとしてはこれ以上ないものだ。

そして、メタフィクションはその多くが「プレイヤーの罪」を提示する。
「Spec Ops:The Line」はプレイヤーがしてきた罪を、主人公を通じてプレイヤーに問うゲーム内容になっている。
「Undertale」も最後にネタバラシをするような方法で、RPGの当たり前をミスリードとして用いながら、罪のない生き物の殺生を責める内容だ。
ゲームでは「当たり前」な非合法的行動も、現実では許されないしそこに罪の意識を持たせなければならない。
だからこそ、プレイヤーに実体験をさせ気づかせることで、「こうであってはいけない」という教訓を与える。

そうしたゲーム内容が多い中で、「Milk inside a bag of milk inside a bag of milk」は少々特殊な内容からメタフィクションに切り込んできた。
プレイヤーは少女の脳内にいる「何者か」である。
中二病の人がよくやる、「内なる自分」との対話のようなものだ。
そうした対話をしながら、少女が牛乳を買いに行くところについていく、というのが本作のプレイヤーの役割だ。
少女の内なる一部であるプレイヤーは、少女と視点を共有しながら牛乳を買うお手伝いをする。
これだけだと「はじめてのおつかい」みたいな、ほのぼのゲームである。

しかし、このゲームの少女は精神になんらかの影響を受けている。
父の投身自殺によりショック性の影響を受けたのか、少女は赤以外の色を判別できなくなってしまった。
また、トラックを熊と誤認したり、牛乳を売っているストアの人が宇宙人のように見えたり、見えるものにも異常が見えている。
さらには、会計を待つだけの時間に「2日」が過ぎていたりと、プレイ中の地の文にも異常が見られる。
そして、能面のように恐ろしい顔をした母親に「薬は効いた?」と圧のある質問をされたうえで「寝ろ」と命令され、少女は従う。
母が父の影響で狂ってしまったと予想できるが、母親にもなんらかの異常が起こっているのだろう。
そんな状況も相まって、少女は壊れている。
このような壊れた少女の「異常」を、プレイヤーは彼女の視点を通じて共有することになる。

プレイヤーは少女の「内なる自分」に位置して、彼女を導き牛乳を買わせてあげる。
彼女の恐怖心にも向き合ってあげるし、時には冷たく突き放す。
もちろん、選択肢をいくつかミスすると「あなたはダメだね」と言われて少女に捨てられる。
そうした拒絶があるからこそ、ミスなく誘導できたプレイヤーは少女に牛乳を買わせてあげることで、彼女を「救った」のだ。
もし牛乳を買えなかったら母親に何か言われるかもしれない。手を出されるかも。
そうした恐怖を防いだわけだから、プレイヤーは確かに彼女を「救った」。
これはプレイヤーに「罪」を自覚させるゲームとは正反対であり、新たなメタゲームの可能性を垣間見ることができる。

しかし、本当にそうなのか?
僕らは彼女を「救ってよかった」のだろうか?
僕は、牛乳を買わせてあげた彼女を「救った」のではなく、牛乳を買わせたことで「壊した」のではないのか?
そんな気がする。
なぜか?わかってるだろう。僕らが彼女を「覗いている」からだ。

本来なら、頭の中に生み出す「内なる自分」は、まぎれもない「自分自身」である。
少なからず他人ではない。
そんな内なる自分が、本作ではプレイヤーという「他人」になってしまっているのだ。
本来あり得ない位置にプレイヤーがいる。
そうして出てきたプレイヤーは、彼女を救えるのか?
彼女を理解する「フリ」をする奴が、彼女を救えるのか?
逆に壊しているんじゃないか?そう思う。

しかし、そうとも言い切れない。根拠もある。
彼女は精神的に壊れている。
分離したプレイヤーレベルの発想が出てきてもおかしくない。
そもそもプレイヤー側は選択肢という範疇を脱することができないのだから、僕らは彼女の内なる自分の枠に支配されているともいえる。

…いや、そうではない。
プレイヤーには裁量が与えられた。
「自由に書くことのできる答え」があっただろう。それもいくつも。
それは仕掛けだ。プレイヤーの意思を見せる瞬間である。
質問は「はい/いいえ」で答えられるものだが、それ以外を入力することができる時点でプレイヤーは少女の範疇を超えている。
つまり、プレイヤーは明確に彼女にとっての「他人」なのだ。
そう、「少女のフリをする他人」だ。

だからこそ、僕は彼女に触れたことを後悔した。
どんなエンディングであっても、理解しづらい他者に対して「俺はわかってるから」みたいな顔をすることが、他人を幸せにするとは限らない。
そいつの頭の中全部を覗くことなんて無理だからだ。
本作は少女の独白から断片的に知識を獲得できるが、そこにある彼女の「心情」に全て触れてはいない。
当たり前である。現実ではそれ以上に不透明な状態で他人と接するからだ。
だからこそ共感してあげることは大事だが、分かってあげられるのはずっと自分だけというのは無理がある。
少女がプレイヤーに真実を明かすとき、「約束できる?」って何度も聞いてくるのは、彼女側もプレイヤーを信じるには不足しているものがあると自覚しているからだろう。

ここには「第4の壁を破ったことに対する罪」がある。
語ってくれた少女に対して、プレイヤーは「何もできない」。
そうしたうえで、内なる自分のフレームの中から「帰らない?」と少女に諭す。何も言わせないのだ。
だからこそ、僕らは彼女との接触を「避けるべき」だったんだろう。
このゲームをやらない方が良かった。
そうすれば彼女は壊れていたかもしれないが、結局問題を先延ばしにする愚かな「内なる僕ら」に出会うこともなかったのだから。
僕はこのゲームをやってそう思った。
そして、僕は彼女を救ったのではなく壊したのだろう。
愚かにも。

このゲームは、そうした真実をフレームの入れ子構造にぶち込んでいくことで、プレイヤーに錯覚せている。
手法としては新しい。
結論は一緒だったが、そこにある過程は明白に違うからだ。
そうした意味合いでは、新たなメタフィクションを提供できていると思う。
凄いゲームだ。

少なくとも僕は自分がまともな人間だとは思わないが、自分より壊れている人が出てきたときにどうするのだろうか。
そんなことを考えさせるゲームだった。
もう彼女に触れてはいけないのだろう。第4の壁なんて超えるべきじゃなかった。
もう二度とやらない。




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