かぶとむし

さくらももこに出会う。

日が暮れた週末の図書館で、さくらももこの「ももこのいきもの図鑑」という本を見つけてしまった。お気に入りの作家のエッセイが、地球の反対側のほこりっぽい図書館にひっそりと息を潜めている事実にときめく。平日の「アサインメント」や「ソーシャライゼーション」に疲労したときは、いつでもEastern Asian Collectionエリアに縦書きの文字と高揚心を求めてやってくる。そしてこの本を読んでかぶとむしを書きたくなった。

かぶとはじめ

好きなペットは何ですかと聞かれたら、間違いなくカブトムシと答える。

僕の幼少期の半分くらいはカブトムシの思い出である。一番最初の思い出は、じいちゃんちのカブトムシだ。じいちゃんの家の裏には、5歳くらいの幼稚園児の僕と同じくらい背の高い腐葉土の山があった。それをじいちゃんと一緒に鍬で起こすと、ジメジメした枯葉の香りと共に、クリーム色のでかいカブトムシの幼虫がゴロゴロと転がってくる。これが楽しくてしょうがなかった。鍬の先の鋭い刃が、柔い幼虫の身体に刺さりやしないかとおどおどしながら。じいちゃんちに行くたびに、たくさん幼虫をお菓子のカンカンに詰めて、家まで大切に運んだ。

そして人生で一番最初にのめり込んだ本は、じいちゃんばあちゃんに買ってもらったカブトムシとクワガタムシの図鑑だ。山梨県のどっかの博物館で買ってもらったやつ。そして約10年後のクリスマス、プレゼントとしてじいちゃんばあちゃんからカブトムシの飼育法の本を買ってもらった。どちらも穴が開くほど読んだ。読みすぎて、飼育法の本に誤字があったのを見つけ、出版会社に電話したくらいだ。何か特別なお礼をされないかなと期待しながらドキドキしながら子機を取ったが、特に何もなかった。

かぶとのみりょく

かぶとむしはカッコいい。
ずんぐりした胴体と、テカテカ輝く甲殻、とげとげした足、そして長く伸びる一本の角。武器がこの角一本だけというのがまた潔くて好きだ。ルパン三世に出てくる石川五右衛門みたいな、刀一本ですべてを片付けるクールさは、日本のカブトムシにしかない。クワガタみたいに相手を横から挟み付けて傷つけるのでもなく、ヘラクレスみたいにチート的な長さの角もない。ただこの一本で敵と渡り合う。これを相手の腹の下に差し込んで、ポンと上にはね上げて一発KOである。すくい上げられた相手は何が起こったかわからないうちに、気が付いたら地面に背中から落ちる。投げられた方も気持ちがいいだろう。だからこれは安楽死である。日本が安楽死制度を導入するよっぽど前から、カブトムシは倫理的に相手を闇に葬るという点においてはよっぽど先をいっているのである。

カブトムシの戦闘ほど息をのむ瞬間はない。
ものごごろついたときぐらいに買ってもらったオオクワガタのシリコン模型を、生きたカブトムシの角あたりまでもっていって、それが角で吹っ飛ばされるのを見て大変興奮していた。これを気が済むまで繰り返した。オオクワガタの模型には気の毒なことをした。
またある時は長い木棒の両端から活気に満ちた若いカブトムシを2匹同時に歩かせ、真ん中あたりで出会わせて喧嘩させようとしたこともある。しかしこれが案外、戦わないのである。なあんだ、つまんないの。意外と平和主義者じゃん。しかし必要以上に刀を抜かないのも、これもまたカッコいいのである。

カブトムシは多産である。
小5の時に育ててたつがいからは、16つの卵がとれた。多分これでも、平均より少ないはずだ。さっそく父さんにねだって、飼育マット(おがくず)をネットで爆買いしてもらう(届いた段ボールからゴキブリが3匹出てきたのは今でもトラウマ)。工具用のでかいプラ製コンテナを用意して、マットを敷き詰める。一番下の5cmぐらいは、幼虫が蛹室を作るときの下限目安になるから、ふんふんと息を切らしながら、握りこぶしでうんと硬く詰める。あとは適当にマットをかぶせておく。そして幼虫を一匹一匹表面に置く。初めて外の空気を吸った子たちは、田舎者がスクランブル交差点で抱くようなワクワクも、去り際の未練のかけらも見せずに、もくもくとまた下の世界に戻っていく。

カブ幼虫のすごいところは、木くずだけ食べて成長できることである。住むところ、食べるところ、うんこするところが全て同じなのである。人間でいえば、トイレのないお菓子の家に閉じ込められるのに等しいのである。これはすごい。いろいろとコスパがいい。

秋冬とおがくずを馬鹿食いしてまるまると太ってくると、幼虫は2周りぐらいでかいカールのような形になってくる。コンテナでは狭そうになってきたので、アップグレードの準備だ。そこでごみ収集ステーションから大量の2Lペットを収穫してくる。ペットの頭を切り取って、16本のコンドミニアムを狭い玄関に並べて満足する。そしてすかさず母さんに文句を言われる。「玄関が狭い」。カブトムシの飼育の半分は、虫嫌いな母との闘いである。
「部屋の中はダメ」「周りはきれいに保って」
理不尽な条件と戦いながら、僕は16匹の基本的人権(虫権)をかけて法廷で毎日争うのである。報酬は何もない。無償の愛をかけるのだ。

そして梅雨頃になると蛹になる。運が良ければ、ペットの壁側に蛹室を作ってくれる。黄身色の蛹は、外からデコピンしてはじいてやるとくねくね動いて面白い。今までカールだったのが、一晩にして急にきれいなカブトムシの鋳型になっているのは、神様が作ってくれた自然の神秘である。個人的には、脱皮だけで成長する不完全変態よりも、蛹を通過する完全変態の昆虫の方が好きだ。ロマンがある。今まで不細工だった芋虫も、一発逆転で綺麗なオオムラサキになれるのである。芋虫のぶくぶくした姿形は、栄養をできるだけたくさん蓄えておくためには都合の良い構造をしている。だからだいたいの完全変態昆虫は最初は芋虫なんだろう。

まだ梅雨も明けない6月の終わりごろ、夜が明けないうちに若者たちはのそのそ2Lペットから這い出して来る。まだ見ぬ外の世界に向かって、期待一杯に羽を開くのだろう。残念ながらそこは樹液の香る薄暗い雑木林ではなくて、人間臭をまとった清潔な玄関の一画なのだが。このころになると、2日に1ぺんらい朝起きたら天井や壁にカブたちが引っ付いている。また運が悪ければ、幼虫のうんこ臭さをふんだんにまとった巨体の、低い不気味な羽音と共に不快な早朝を迎えることもできる。

はかなさ

カブトの成虫は儚い。ひと夏しか生きられない。
夏休みに入る前の小学校の帰りの会で、みんなに「たくさんカブトムシが生まれたので引き取ってくれませんか」と伝えてみたところ、案外好評で3/4くらい友達の元に旅立っていった。こうしてカブトムシディプロマシーによってクラスの自分の株をあげる。カブだけに。

初夏になると僕の家でなく、街にもカブトムシが現れる。家の近くのヨーカドーの2階には、エスカレーターを上った左側に昆虫コーナーができる。待ちきれなくて、いつもエスカレーターを早足で上っていた。
初めの頃はまだ生体は入荷されていなくて、昆虫ゼリーやマット、虫かごなどの飼育用品しかない。まだかまだかと待ちきれなくて、毎日のように通っては確かめていた。そしてある日突然、カブトムシやノコギリクワガタから、外国産のアトラスやコーカサスまでずらりと並び始める。小学生のおこずかいではとても手が届かない値段だ。ケースの中を一匹一匹じっくり確認して、ひっくり返っていたらケースを振ってもとに戻す。ただペアで入っていることが多いので、ひっくり返したい一匹が戻ってももう一匹が逆にひっくり返ってしまう。かわいそうなつがいたちは、乱暴な少年のエンドレスフリップによって重度の脳震盪被害に遭っていたに違いない。

家から少し離れたでっかいドンキの駐車場の林には、若いクヌギの雑木林がある。夏になると友達や妹と一緒に良く通った。まだ幹が細いので、足でずんと蹴ると、幹が揺れて休んでいるカブトやクワガタたたちが転がり落ちてくる。それが楽しくてしょうがない。

昆虫ゼリーを馬鹿食いして、おしっこをケース中にまき散らして、人の寝ている間にブンブンガリガリ音を立てて自由奔放に暮らしているやつらも、秋口に気温が下がってくると動きがのろくなってくる。そしてある日突然、足がひっくりかえって動かなくなるのである。アパートのすぐ下にある花壇に毎年こいつらを埋めに行く。たくさん埋めすぎて、前の年に埋めたやつらが出てこないかビクビクしていた。死んだカブの先祖を掘り当ててしまうことほど不謹慎なことはない。

そして学生になった今も、カブトムシこそ飼っていないものの、オオクワガタが家にいる。クワガタはカブと違って冬眠するし、よっぽど静かだ。けれど、ひと夏の虫かごの賑やかさと、むっくりしたフォルムの愛嬌と、昆虫ゼリーとおしっこの発酵臭は、幼い頃の僕の物語を彩る役者たちだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?