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【育児】神さま、残酷すぎないか

旧約聖書によれば、神様は天地を作り終えたあとに人間を作ったとされる。
人間を30年やって思うのは、不完全なところはたくさんあるが、人体は実に良くできたものだということである。
人間にはたくさんの記憶を蓄積する能力もあり、そしてそれを言語化して話し合うこともできる。

しかし、記憶も言語化の能力も、幼年期であればほとんどない。まして、乳飲み子だった頃なんてほぼない。
私自身も小さなころの記憶はほとんどない。母親から「あんたが小さいころは…」とこぼしてはじめて「へえ、そんなことが――」と初めて知るものだ。
おぼろげにこんなことがあったということこそわかっても、小さいころは時間の感覚が一切ないので何歳のときに起こったのかはまったくわからない。結局、あいまいな記憶だけがそこにあるだけという状態になる。

となると、今育てている娘も、毎日可愛さギネスを更新し続けているこのかけがえのない現在を、彼女自身は全く記憶していないということである。娘もまた、大きくなってから「あんたが小さいころは…」とこぼしてはじめて幼年期の姿を知るのであろう。

いやはや、これほど残酷なことがあるだろうか。愛を注がれつづけている幼年期の記憶は全くと言っていいほどなく、それだけに本人も面倒を見てもらったという自覚もない。なんなら子供のころには自分一人で大きくなったかのような錯覚まで抱いてしまうのだ。
ひどい場合には、成長とともに親に反抗したり乱暴したりして迷惑をかけることもある。手塩にかけて子供を育ててきた親の立場を考えると嘆くほかない。

もう少しこの話を敷衍すれば、大人は覚えていても子供は忘れているという残酷な歴史を、ひとは何度も繰り返してきたともいえる。
神が人間を作ったそのときから、神は「愛を注がれた幼年期の記憶が人間にはほぼない」という、残酷な現実を人間に植え付けたのであろうか。その残酷な現実は、子供のころには決してわからないことであり、大人になっておぼろげながらわかることであり、もっといえば、子供が生まれてから身に染みて分かるものである。

神様のいる死の世界へと刻一刻と近づく中で、神様がそんな残酷な現実を残した意味が、いつの日か腑に落ちるときが来るのかもしれない。その「啓示」を受けることは、親としての成長なのであろう。

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